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「ここにいるべきではない」と思う瞬間の自分の心理を研究する

僕には「ここにいるべきではない」と思う瞬間がよくある。特にSNSをやってる時に感じることが多いので、承認欲求の一種なのかもしれない。その場合、どんなタイプの承認欲求なのかを、当事者研究の一環で研究してみたいと思っていた。

強い人も「思わず弱る」瞬間がある

そんな時に読んだひらやまさんの記事にすごく共感することが書いてあった。

僕は憧れる対象にはなり得ないけど、ここで言う「強い人間」ではあると思う。そして、ここに書いてあるようなきっかけで「思わず弱る」ことがある。それが「ここにいるべきではない」と思う瞬間なのかなと思った。

純粋に意識が高く、利他的な人は沢山いる

僕は、自称だけど、すごく意識が高くて利他的な人間だと思っている。それ自体、客観的にそう評価された訳じゃないけど、僕のこれまで発信した内容と実際の行動を追っていけば明らかになるはず。

でも、自分ではそう思っていても、客観的な評価がないとそうだと自信を持って言えない雰囲気がある。実態がどうであれ、証明されてないことを公言してしまうと更に社会的に損をするだけという感覚がある。

でも、本当に意識が高くて利他的な人はいると思う。例えば、この記事の若者たちが意識が高いのは、純粋にただ利他的なんだと思う。

彼らが意識高いことに対してよく知らないのに「偽善」とか「自意識過剰」の疑いをかけるのは「良くない」どころか、いろんな部分に負の影響を生むと思う。あからさまに疑わなくても、そういう風潮に対して沈黙することも、同罪とは言わないけど、その負の影響に加担していることになる。その風潮に風穴を開ける行動に出るにはリスクが大きいのはあるけど、それは結局いじめと同じ構造だと思う。

僕が「思わず弱る」瞬間

僕が「思わず弱る」瞬間は、自分の利他的なことをネット上で発信した時に漂う沈黙を感じた時に多い。僕にはTwitterのフォロワーが1000人以上いて、facebookの友達は700人以上いる。誰を責める訳ではないけど、僕がそういう利他的な発信をし続けても何の反応もないと、冷静に分析してもそれは「みんなにとってはむしろダメだったこと」なんだと判断するしかない。それが間違った分析だとしても、僕がそう感じていることは事実。

ポートランドから帰国して2年近く経った時に書いたこの記事の内容は、まだポートランドと日本の状況の違いを客観的に見れた貴重な記事かもしれない。まだ日本は善いことをするのにハードルが高い社会と言わざるを得ないと思う。

「ありのまま承認されるべき」という承認欲求

僕の承認欲求は、承認されるべきことはありのまま承認されるべきだという欲求なんだと思う。僕のことは置いておいたとしても、日本は間違いなくそういう社会とは言えない。自分の経験からは、日本がそういう社会になるのを期待するより、AIに機械的に判断させた方がよりよい判断ができると言える。その方がその人のアイデンティティが正確に分かり、本当に評価されるべき人が評価される社会になると本気で信じている。(これにより「過剰なマーケティング」が無意味になって、人々がもっと別の価値あることに目を向けるようになることを期待する、ということは別のnoteで書く予定)

僕が絶望と言えるくらいまで陥ってしまうまでには、幾度となく「思わず弱る」経験をし続けてきた経緯がある。僕は強くもあると思うけど、負った心の傷は確実に蓄積されている。もう取り返しがつかないくらい傷を負ってるかもしれない。それが「ここにいるべきじゃないのかも」という迷いにつながってる気がする。実際に、海外移住の考えは常に頭にある。それは夢でも何でもなくて、現実的な手段として。

日本を出国するのが「現実的な手段」になってしまうケース

第92回アカデミー賞の「メイクアップ・ヘアスタイリング賞」を受賞したカズ・ヒロさんがした選択も、切実な気持ちが迫ってくるほど良くわかる。

また、帰国子女ではなくて出国子女の99%が女性という事実からも、他に選択肢が無いほど、日本社会は能力のある人に相応のチャンスが無い社会ということを物語っていると思う。

こういう風に社会を分析してしまうという当事者研究

何となく当事者研究というより、「日本社会に対する僕の見方」という分析的な記事になってきてしまったが、「僕がこういうことを日々考え、時には弱りながら生きていて、こういう承認欲求を求めている」ということを当事者研究として記事にしてみたということにしとこう。


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