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芸術鑑賞に知識は必要か問題

 昨日、記事の整理をしていたら、二年前くらいに書きかけて放置していた記事があったので、〆を少し加筆して公開することにしました。なんか、二年前の自分ようこんな考えてたなと妙に感心してしまいました。何かスイッチが入ってたんでしょうね。
 あと今より文章ちゃんとしてんな。


 とあるツイートが回ってきて、それに対する反応やらそのツイート主さんの一連のツイートを見てたらなかなか興味深かったので、自分でも考えをまとめてみようと思いました。
 ツイートの論題は、「絵は知識と教養がなければ楽しんじゃいけないのか」。ここでは絵に限らず、娯楽全般について考えていこうかと。

 結論言うと「存在を知覚さえできれば、楽しみようはあるし、楽しむ資格がないなんてことはない」と思います。
 要はその人が何をどう楽しみたいか、です。

 文学で言うと、まず大前提として、意味や作品の流れを理解するにはその書かれた言語への知識が必要になります。
 知らない言語で書かれた文字列は、自分にとって言葉を表すものではなくて単に模様として、もはや画像として飲み込むしか手段がなくなります。
 ただ、「この文字の形が綺麗だ」「文節の区切り、空白の位置取りがいい」と思ってもいいですし、そういう楽しみ方も一種アリでしょう。
 また意味がわからなくても、もし、それが例えば「中原中也が読んだとされるフランス語の原典」だとしましょう。
 そうしたら、「ああこれが、中原さんが読んだ文章、中原さんの目が追った文字列、あああ」という楽しみ方もあります。現に僕の家には、そんな思考(「中原さんが精通してた言語で書かれた本!」)で全然意味は分からんけどフランス語の書籍(中原さんとは全く関わりのない書籍。おそらく印象派絵画についての評論か注釈書?)があります。(書いてて思ったけどすごい気持ち悪いな僕)

 音楽もそうで、洋楽の歌詞の意味を楽しむには言語能力が不可欠ですが、意味が分からないままメロディを楽しんだってそれはそれでいいわけです。
 歌詞の深みを楽しむ人。メロディや言葉の響きを楽しむ人。使用楽器やコード、演奏技法を解読して楽しむ人。どれも間違った楽しみ方ではないはずですし、人はそれぞれその作品をどう楽しむか、取捨選択をしているんです。
 知識はあると視野が広がる(いろんなものが知覚できる)のですが、逆に、その知識が正解をただ一つに定めてしまうのです。

 テレビ番組や有料チャンネルと同じで、受信したいと思ったら、アンテナを立てればいい。享受したい作品に関係する、自分の興味のある分野を学んでチューニングすればいい。

 そういう気持ちで楽しむからこそ、芸術はここまで多様性に満ちて、発展してきたのだと思います。有史以前から令和に至るまで、脈々と受け継がれてきたのだと思います。
 陶酔するあまり狂信者が現れるのも、解釈違いで戦争が起きるのも、普遍的な「正解」がないことの何よりの証明です。まぁ自分が正しいと思って人をむやみに攻撃するのが一番タチ悪い所業なわけですが。

 長々小難しく書きましたが、要は皆それぞれ最大限に楽しめたらいいよねってひどくありふれた意見です。僕も拙筆ながら、好きなものを好きなように、でも真摯に発信していけたらなと思います。

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