きっかけ【小説】
ある朝、起きてみたら、世界の色が変わっていた。
ああ、もちろん文字通りの意味ではない。
空の色は昨日見た水色とそっくりだし、ベランダに置きっぱなしのじょうろは昨日と寸分違わない黄色だ。
それでも世界の色は変わっていて、ああもう昨日までと同じようには暮らせない、とロールパンを齧りながら思っていた。
いつもの通りの朝のテレビを見て、いつもの時間に家を出て、いつもの満員の電車に乗り、人の波に乗る。電車の揺れに合わせ、人々が揺れる。いつも降りる駅を通過すると、多くの人が降車する。席に座れた。ここをすぎるとこんなに空くのか、と気づきを得て、目を閉じる。やがて空席が目立つようになるまで、電車が運ぶまま。随分遠くまできたものだ。いつか聞いたようなセリフを口の中で呟く。
ぼんやりと窓の外を眺めると、目を刺す光。思わず顔を顰める。
そこには海が広がっている。
「海?」
そんなに遠くまできていただろうか、と不安になる。
いつものくせで左手首をみるが、そこに時計はない。ああ。
海に視線を戻すと、太陽の光をヒラヒラと反射している。波同士がぶつかり、ゆらゆらとうねっている青。ままならない。海でさえ。
電車が止まる。自動ドアが開くと、潮の匂いがする。のびをし、ふらりと立ち上がる。
誰もいないホーム。おかしいなと首を捻るが、まあいいかとあくびをする。
ホームだけ、照りつける太陽から守られ、影となっている。
ホーム上の自動販売機で、蛍光色の炭酸飲料を買う。がこん。取り出し、キャップをあけると、プシュ、という小気味よい音がする。
こんな炭酸飲むのいつぶりだと、懐かしく蛍光色を眺める。・・・なんかすごい色だな。なんだかおかしくなってきて、耐えきれず、ふふと笑う。誰もいない。
無人の改札を通り抜ける。改札横には「御用の方はベルと押して鳴らしてください」と小さなハンドベルとメモがある。天井に吊り下がっている看板を見上げる。「←海」
「左」
左に曲がる。
砂浜で人工の皮でできた靴と、肩肘の張ったジャケットを脱ぎ、その場で両方を投げ捨てる。砂浜を裸足で歩いてみる。踏み出した右足の指の間に砂が入ってくる。左足も踏み出すと左足の指の間にも砂が入ってくる。
むにゅっとした独特の感触に笑っていると、ふと、呼ばれた気がして、顔を上げる。
顔を上げた先にはざあと寄せては帰る波。波打ち際で白波を立っているのが何だか不思議。海に近づく。歩き出すと真っ白に見えた砂浜には尖った石や貝殻が混ざっていて、一歩ごとに足に刺さる。その痛みにさえ、目をつむって波打ち際に向かっていく。
「あ」
立ち止まる。
「そういえば、昨日炊いたご飯、冷蔵庫に入れたっけ」
急に思い出してしまった。入れたような、入れ忘れているような。
「まあ帰って確かめるか」
投げ捨ててあった靴とジャケットを拾い上げる。
「うわー、ジャリジャリ」
パンパンと砂を払うが、落ち切らない。まあ、駅員さんには許してもらおう。
「こんな砂浜がある駅なら日常茶飯事でしょ」
駅に歩き出す。振り返ると波は寄せては引いている。先ほど感じたような興味は引いている。波のように。
「じゃあね」
駅には先ほど無人だったのが嘘のように、たくさんの人で溢れている。喧騒の中を砂だらけで歩く自分におかしくなって、必死に笑いを堪える。
世界の色は変わったが、私の日常は続いていく。
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