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教育×生成AIについての新聞記事から考える勉強する意義

2024年4月30日読売新聞一面の記事に以下のような内容のものが載っていました。

東京都内の私立中高一貫校は、昨年度の中1の冬休みの宿題にとして、英語で日記を書く宿題を課した。
出された宿題を見ると、現在完了形など教えていない英文法が使われ、ミスもない「素晴らしい英文」の日記が、何人もの生徒から提出されてきた。
生成AI(人口知能)に書かせて、提出された宿題であることが疑いようはなかった。
生成AIへの依存を強める生徒たちの実態を前に、この学校では春休みから英作文の宿題を廃止した。

記事は、昨今、話題になっている生成AIは、中学生の思考力や想像力の育成を妨げている要因になっているということです。

一面に掲げられるほど、重大な出来事とされるこの記事を読み、考えたことが2つあります。

①どの世代にとっても、宿題を代わりにやってくれる存在はいたということ
②勉強をする意義を伝えることが、時代的にかなり重要になっているということ

です。

①は、生成AIがなかった時代においても、宿題を手伝っていた親(他の存在も含め)はいたし、宿題にネットを利用して仕上げるということはあったと思います。

要領の良しあしで、1つの宿題を終わらせる時間はバラバラだし、すべての宿題にかかる時間に個人差はあるが、みんなに出されている宿題が一緒であれば、成績を確保するために、限りある時間の中で、効率良く素晴らしい出来栄えのものを提出しようとすることは、当たり前に起こっていました。

人間に与えられる時間は平等ですが、計画的にできる子とできない子、要領の良い子、悪い子など個人差があるので、与えられた時間の中で、意識的にせよ、無意識的にせよ、英語やその他の教科、自分のやりたいこと等に、優先順位をつけて物事に当たるのは、当然であると思います。
生成AIで出来そうな宿題は、生成AIでやってしまうのは、考えられてしまう行いです。

親がやるか、ネット検索でやるか、生成AIでやるか、の違いなので、生成AIだからダメ、でも、親に聞くのは良い、とか、生成AIはダメで、親に手伝ってもらうのはOKなのか、とか、人間は良くて、機械だからダメ、とかそういう話になってしまうのではないか、と思ってしまいます。

記事には、先生のコメントとして「英語に触れる習慣を身につけ、文法の復習をしてほしいから出してきた」とありましたが、果たして、英語に触れる習慣を身につけ、文法の復習をするとなんか良いことってあるの? って、生成AIを使って宿題を済ませた子どもたちは思っていると思います。

その中でちゃんと宿題をやってくるかどうかは、先程から言うように、個人の能力差でしかないのではないか、と思ってしまいます。

では、どうすべきなのか?

これが②の考えです。
自発的に勉強をさせるのは、勉強の意義を伝える、それしかないのではないか。
今やっている勉強に、どう意味があるのか? 勉強する習慣を身につけることは、どういうことにつながっているのか?
それを教育者の立場から伝えていくしかないのではないか、そう思います。

勉強というのは、良い成績を取ったり、良い学校に入ったり、良い勤め先にいったり、そういうためにしているのではないと思います。
これは、勉強の動機が内向きになってしまっています。
勉強の動機が内向きになると、楽して最大の成績を取りたい、楽して良く見せたい、という考え方になってしまいます。

そうではなく、勉強の目的は、社会をより良くしていくため、人の役に立ち、喜んでもらうために行うものなんだ、ということが分かると、勉強の動機が外向きになり、より前向きに取り組めるようになると思うのです。

そもそも勉強で学ぶ知識というのは、先人たちから受け継がれてきた財産であること、それを教科書や学校の授業等で学べること、このことが非常に重要だと思います。
知識を独占されることもなく、だれもが享受できる。
当たり前すぎて、大きなメリットとして感じづらいだけで、この財産を受け取れることは、実はとてもすごいことなんだと。
そして、いつか自分やだれかが困ったときに、その財産は使うことができる
そのために、その財産を受け取り、貯めていき、力にしていかなければならない。

つまり、勉強は苦行を耐えるものではなく、今、ここではない、自分やだれかのためになっているんだよ、ということを伝えていくことが、大切なのではないかと思います。

知識や学んだことは、色褪せません。
だからこそ、将来、自分だけでなく、だれかのために使い、引き継いでいかなければいけない財産なのだと思うのです。
だから、学ぶこと、それ自体が、人のためになっているのです。

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