【映画レヴュー】サン・セバスチャンへ、ようこそ Rifkin's Festival
人生というものはいつも上手く行かない。恋愛にしろ仕事にしろ自分自身の在り方にしろ、生きる意味とは何なのかをついつい考えたくなるものだ。
ウディ・アレンの「サン・セバスチャンへようこそ」は、いつもながらのアレン節ともいえる映画であり、そんな気分の時に観るにはぴったりの作品だ。
舞台は映画祭が開催されているスペインのサン・セバスチャン。そこで繰り広げられる一組の夫婦を始めとする男女四人の恋愛模様、その最中に主人公リフキンの頭の中で往時の映画の1シーンが妄想としてオーバーラップしながら物語は進む。
原題は「リフキンズ・フェスティバル(Rifkin's Festival)」。舞台となっているサン・セバスチャンでの映画祭と、映画人である主人公リフキン自身の人間関係と妄想をフェスティバルに見立てている、ということになり、フェスティバルという言葉に二重の意味を掛けている。
冒頭、精神科医と向き合い自身の体験を吐露する主人公リフキン。すぐに物語はリフキンのサンセバスチャンでの映画祭の回想シーンへと移行する。ここでは、映像にリフキンのナレートが被せられて進行していくが、このナレートが医師に話しているところのリフキンのものなのか、または物語の登場人物としてのリフキンの内面の声なのか、どちらとも取れる構成でストーリーは進む。
物語はリフキンとその妻、その妻との浮気をリフキンが疑っている不倫相手、その最中にリフキンが思いを寄せる女医の四人の間で進展する。妻の浮気を疑い苦悩するリフキン、その苦悩によって生まれるリフキンの妄想、さらにそれはリフキンの目の前の医師に対して語られており、最後の最後に
スクリーンを観ている観客である私たちに向かってリフキンは「どう思う?」と問い掛ける。物語は幾層もの構造を持って観客の前に現れる。
この重層性は物語そのものだけではなく、リフキンの妄想自体についても言える。
往時の映画の名シーンをオマージュしたリフキンの妄想シーンはこの映画に繰り返し現れる。ゴダールやベルイマン監督の作品のワンシーンをリフキンの心情に当てはめてストーリーに上手くリンクさせている。その妄想も主人公のリフキンのものなのか、医師に語っているところのナレートとしてのリフキンのものなのか、はたまた監督のW・アレンの作品を超えたところの妄想であるのか、この妄想自体も幾重にも意味が取れる。
ナレートの二重性、物語の重層性、妄想の重層性、そして物語そのものの
男女の複雑な関係性を呈しながら軽快に、そしてユーモアを交えて作品は進展していく。いつもながらのアレン節で悩みながらも笑わせ、情けない姿を晒しながらも賢明さを見せ、最後に「さて、僕の話を聞いてどう思う?」とカメラ目線で観客に向かって問い掛けて作品自体から観客を解放する。
「サン・セバスチャンへようこそ」は作品の設定も妄想も物語も複雑に入り組んだ作品だ。見終わって映画から解放されたとき、観客は日常へと戻っていく。人生は仕事であろうと恋愛であろうと、かくもこの作品のように愛と苦悩に満ちていて常に複雑で悩ましい。願わくばこのような物語は映画だけであって欲しいもので、現実はもっと穏やかであるといいのだが。