見出し画像

〔その9’〕支那の五行思想と十干十二支を論ず 2/6→2/9改訂

〔その9’〕支那の五行思想と十二支
 支那で大成した陰陽五行思想は、ギリシャやインドの四大(五大)思想と発祥を同じくするものの、周漢族の性格を反映したからか、かなり異なる点もあります。
 支那流推命学の歴史を垣間見た処では、徐方平・徐楽吾など徐氏が重きをなしていますので、山東の方士徐福の末裔がその発展に深く関わっていたのはたしかなことと思います。
 WWⅡの敗戦により連合国から自虐史観を押しつけられた本邦の歴史学界に、渡来文化や渡来人を持ち上げる卑屈な風習が生まれると、これに便乗した卑しい輩が「徐福が富士王朝を創った」などと根拠のない歴史漫談を流布しております。
 その甚だしきは「徐福が神武天皇になった」などと自ら日本民族を愚弄する説を流布しており、ユ―チューバ―の篠原常一郎氏が盛んに流布する秋篠宮一家に対する暴言にも鑑みると、「不敬罪は廃止せぬ方が良かったのではないか」などの感を催すことすら、時に禁じ得ません。
 徐福を日本に派遣した秦始皇帝の実父は胡商呂不韋であること、および呂氏の歴代が支那の王朝交替に際して莫大な財務支援をしながらキングメーカーを勤めたこと、を初めて指摘したのがこの白頭狸です。
 実子が皇帝となった大秦帝国の倒壊を図った呂不韋は、自ら偽装死しますが、あらかじめ朝鮮半島に脱出させた一族の本拠を馬韓の辺境に設け、国号を秦韓と称して交易に従事し、分派は日本に渡来して秦氏を称します。

 要するに、呂氏の血統となった秦始皇帝の一族が日本に渡来して秦氏を称したわけですが、秦始皇帝が山東の方士徐福に命令して日本に渡来させたのは大秦帝国の将来を見据えたものと観るべきです。
 具体的には、山東の呂公が財務支援した娘婿劉邦を支那本部の皇帝に就けて大漢帝国とする傍ら、呂氏一族は日本列島で國體黄金の管理を担当するための下準備を徐福に命じたとみるのが最も合理的です。
 要するに戦後日本に蔓延る徐福伝説は、自虐史観(半島からすれば悔日史観)に侵された虚説に過ぎませんが、ここまで蔓延ったのは、有史以来神武皇統に進入せんと図ってきたモノノベ氏の執拗な「天孫背乗り」工作が下地になったとみるのが妥当なところです。
 モノノベ氏についてはいわゆるユダヤ説が流布されていますが、ユダヤ人の定義しだいでその説も成り立ちます。ともかく方士徐福はモノノベ氏の一分派と見るのが妥当なところです。

 思わず狭斜に迷い込みましたが、元へ戻すと、支那推命学では、「五行」と「陰陽」との組み合わせで「十干」になり、さらに「十二支」と組み合わさって「甲子」から「癸亥」までの「六十干支」になりました。
 支那の戦国時代の天文学が、天の赤道帯に沿って天球を東西に十二分した十二辰に動物の名称を宛てたのが「十二支」です。動物と組み合わせた経緯や背景に関してはいろんな説がありますが、白頭狸はバビロニア天文学の十二宮が東遷してきたものと考えています。
 十二支を植物生育の順序に当てはめて運勢の流れを見るのが「十二運」で、支那では「生旺墓絶」と呼びますが、後程述べることとします。
 

いただいたサポートはクリエイター活動の励みになります。