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ウクライナは満洲国の相似象 11/16

〔87〕色物PARTⅡ  
 満洲国問題と日本帝国の国際連盟脱退
 ニューヨークの国連本部で令和四年十一月十二日(現地時間)に開かれた緊急特別会合において、ロシアがウクライナの東部・南部の四州を併合したことに関してウクライナが提出した決議案の協議が行われた。
 ロシアによる併合は国際法に違反し無効、と非難した国連総会は、ロシアに一連の決定の撤回などを求める決議案を採決にかけたのである。

 ロシアが主導したとされる「住民投票」およびこれに基づく併合について、いかなる領土変更も認めないよう各国に求め、ロシアに対して一連の決定を撤回し軍を撤退するよう求める決議案への支持を呼び掛けたアメリカの国連大使トーマス・グリーンフィールドは、「国連はロシアによって試されているが違法な併合の試みを容認しない」と述べた。
 ロシアの国連大使ネベンジャはこれに対し、「住民投票で圧倒的多数がロシアの一部となることを選択したから決議案は不当」と訴えたが、このあと行われた採決で、日本や欧米各国など一四三国が賛成、ロシアや北朝鮮など五国が反対、中国やインドなど三五国が棄権し、棄権と無投票を除く三分の二以上の賛成で決議は採択された。
 十月三十日に国連安全保障理事会に提出された同趣旨の決議案は、ロシアの拒否権行使により否決されていた。二月のロシアによるウクライナへの軍事侵入以来ロシアに対する決議が採択されたのは四回に及び、多数の国が決議に賛成したが、反対や棄権に回った国もおよそ五〇国にのぼり、国際社会の足並みが乱れているのは明かである。

 ちなみに日本の石兼国連大使は十二日の特別会合で演説し、「ロシアによる言語道断の行動を国連総会が認めてはならない。力ずくで現状を変えようとするこうした一方的な試みは、国際秩序の基盤そのものを揺るがすものであり、世界のどこであっても起きてはならない」と述べ、決議案への支持を呼びかけた。
 妖霊星の正体は実にこれであった。つまりWWⅡ終焉後七七年の間地球を統治してきた国際連合(戦勝国連合)の分裂解体である。
 すなわち昭和八(一九三三)年二月二十四日のジュネーブの国際連盟総会において、満洲帝国の建国を日本の軍事介入とする「リットン報告書」の採決に当り最終演説に臨んだ日本首席全権の松岡洋右が連盟脱退を宣言した史実の相似象である。
 リットン報告書の受け入れに関する採決において、反対は日本だけでタイが棄権し、他の四二国が賛成した。この相似象が今回の国連決議なのである。
 昭和七年の満洲建国の淵源は、明の末期に山海関を超えて支那本部に侵入し大清帝国を建てた愛新覚羅氏が乾隆四十七(一七八二)年に建てた満漢分離策に始まる。その委細は拙著に譲るが、略述すれば、支那社会に呑みこまれて自立精神を半ば喪失した満洲族が引き揚げたくない故地満洲に、漢族の生活難民が押し寄せて住民の過半を占めるに至ったことに発するのが満洲問題である。
 漢族の生活難民に軒を貸した満洲族が漢族に母屋を取られてしまったのは、ポーランド人およびガリツィア・ユダヤ人と混住するウクライナ人にかつての赤ロシア(ウクライナ)を乗っ取られた今日のロシア系ウクライナ人と同じ立場である。
 昭和七年に建国した満洲国は、満洲族の首長醇親王の請託を受けたワンワールド國體すなわち世界王室連合の頭領堀川辰吉郎が帝国陸軍に命じて建国させたのであるが、国際連盟が派遣した英国のリットン卿による「リットン報告書」により正統性を否定され、まさに今日のウクライナと同じ状況に立たされたのである。
 露支が染まった共産主義思想の南下による領内侵入を最も恐れる日本は、満蒙が露支との間の緩衝地帯になることを切実に望んだから、醇親王を支援して、満洲族の故地に五族混住の多民族国家として満洲国が自立するのが最も国策に適ったのである。
 かるがゆえに、満洲国が支那固有の領土ではないのは歴史的にも正当であるが、当時東アジアの歴史など真剣に研究したことのない連盟各国は、リットン報告を信じてしまったのである。
 歴史的のみならず、国際的勢力均衡論からしても、共産主義の南下におびえる日本に緩衝地帯として満洲国を宛がうことは国際政治の現実からしても理に適う正当な処置であった。
 しかし松岡の努力は実らなかった。連盟外交失敗の原因を松岡個人の性格に求める世上の俗説は、石原莞爾さえ吉薗周蔵に「自分の失敗はあの奔馬のような松岡を見逃したこと」と語ったことを見てもあながち誤りとは言えないが、公平に観るべきであろう。
 昭和七年八月の衆議院における武断外交派の森恪議員に対する答弁で、「国を焦土にしても満州国の権益を譲らない」と答弁して「焦土演説」と呼ばれた外務大臣内田康哉が、国際協調主義者から一転して満洲固持説になったことからしても連盟脱退が松岡の個人プレイとは思われず、満洲固持を決意した日本の総意と観るべきであろう。
 それもさることながら、連盟自体が日本に対する拒否感で満ちていた時に、いかなる対応が最適だったのか、結果論を持ち出しても完全に証明できまい。
 連盟が正式にリットン報告書を採決することが確実になったのは昭和八年二月十七日のことである。外務省に打電した松岡全権は、「こと茲に至りたる以上、何ら遅疑するところなく、断然脱退の処置を取るに非ずんば徒に外間の嘲笑を招く」として脱退を決意し、二十四日の連盟総会において大演説のあと、「さよなら」と言って閉会宣言を待たずに退場した。「連盟決議案を採択しわが全権堂々退場す」と報じた朝日新聞の紙面が掲載された教科書に、狸が接したのは昭和三十三年のことであった。
 諸賢よ、この時の松岡が今のロシア外相ラブロフで、プーチンは内田康哉なのである。その心情を、日本人として思ってもみよ!

 

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