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〔109〕ハプスブルク大公は「海外伏見宮」

 〔109〕ハプスブルク大公は「海外伏見宮」
 落合が「國體秘事伝授」を受けた初めは平成十八(2006)年頃です。
 バブル崩壊で経済破綻したことで東京を捨てた落合は、麻布十番に秘書を一人残して老父母の住む紀州へ戻り、配所の月を看る心境で親戚の空き屋敷に起居していたところ、平成三年に知り合ったさる人物が紀州迄訪れてくるようになりました。今は國體舎人と呼ぶその人物が、時どき紀州を訪れるようになったのは平成十三、四年頃かと思いますが、それから携帯電話による通信が始まりました。
 やがて、その内容が時事問題から歴史問題に広がったので、携帯でのヤリトリは無理と思ったのか、國體舎人は麻布十番の落合事務所を訪れて来て、秘書に要旨を伝えてきました。それをメモした秘書は、いちいちファックスしてくれました。
 間もなく、歴史情報の発信者は高松宮喜久子妃殿下と判りました。落合と國體舎人が通信中の平成十六(2004)年に薨去が発表された喜久子妃殿下は、その後も生きておられたことを落合は確信しております。
 秘密の時事情報を國體舎人との間でヤリトリしていた落合は、喜久子妃殿下が國體舎人に命じて送られる秘事伝授だけは秘書を通じて受信し、そのお蔭で、ファクスの内容がワープロ文書として今に残りました。
 そのファクス文書にしばしば登場したのが「海外伏見」です。「海外伏見とは一体何だ」と舎人に質したら、伏見宮が室町時代に海外に進出して欧州王室に入ったんです」とのことです。その時は「まさか」と思いましたが、その後も黙って聞くことにしました。
 落合の南北朝研究が始まったのはそれより遅く、平成二十四(2012)年に始まりますが、真っ先に学んだのが「大塔政略」です。
 これは南北に分裂した皇統の双方が、それぞれ広大な荘園群を所有していることから生じた相続争いと、北条幕府が造った両統迭立制を終焉させて皇統を一本化することを図った大経略です。
 両統迭立制とは、鎌倉時代に「大覚寺統」と「持明院統」に分かれた皇統が交代に皇位に即くとする皇位継承ルールで、北条幕府が宮廷を操縦する目的で図ったものです。
 吉野に御所を立てた大覚寺統が南朝、京に本拠を置いた持明院統が北朝とされて南北朝の語ができましたが、この「南北」は宮廷の所在地を越えた世界史的に深い意味があるので、これからは時代を遡っても「南北朝」の語を用いることとします。
 一言だけいうと「南船北馬」の語が示すように「南は水軍、北は騎馬隊」がシンボルです。
 つまり海上勢力と大陸勢力の対立を示唆しているのです。
 話を戻すと、南北皇統首脳の合意により秘密裡に統合した皇統が「今後は大覚寺統後醍醐天皇の皇子大塔宮護良親王の男系子孫だけを天皇資格者とし、その他の皇統に即位資格を認めない」ことで合意したのが「大塔政略」です。
 この話は、これまでいかなる史家も述べておりません。だからこそ「女系天皇」などというタワケた説を為すものが輩出しておるのです。
 さて伏見宮が海外に出るまでの仔細を述べたのが、拙著の落合・吉薗秘史第三巻『日本皇統が創めたハプスブルク大公家』で、市販していますから書店またはアマゾンでお求めください。それが入手困難ならば同十巻『神聖ローマ帝国の世襲皇帝になった南朝王子』で大方は理解できると思います。手許に多少在庫がありますから、本項の注文フォームでお求めください。
 なお、同第九巻『ハプスブルク大公に仕えた帝国陸軍國體参謀』は落合・吉薗秘史刊行会の刊行ですが、すでに在庫は在りませんから、古書市場でお捜しください。

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