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コミュ力改善系の自己啓発は無意味としか言いようがない。

私は高校時代、友達が一人もいなかった。
心の通った相手がいないといった意味ではなく、一日あたり5分も話せれば良い方という「話し相手」すらクラスに一人いるかいないかというレベルだった。


今も周りから口が達者と思われることは少ないだろうが、
数々の環境の変化と経験を経て友達だと胸を張って呼びたい仲間は出来たし、その過程の中で、何がかつての自分の中で引っかかっていたのか?などコミュニケーションに対する知見が少し積めた気がしている。

この記事ではそういった知見を忘備録的にまとめてみたいと思う。


前提

コミュニケーションというのは極めて複雑なものであって、その絶対的な解や対処法を解明してやろうというのは不可能に近い。この世に生きる人びと全員がコミュニケーションの不和から生まれる人間関係問題に悩まされていることからもそれはよく分かると思う。
それに、コミュニケーションは本人(と本人から見た相手)が良いと思えばそれでいいのであって、受験や仕事などに見られる客観的に明確な達成対象は存在しない。
だがしかし、仮にかつての自分のような人が目の前にいたとして、その人に対してある程度参考になるかもしれない考え方を提示することは可能ではないかと思ってこの記事を書くことにした。




"それに集中せよ"


話をもう少し具体化させよう。
明確な必勝法のようなものはないというようなことを先程述べたが、1つ方法論のようなものがあるとすればそれは
注意の方向性、である。


他人から相談事を持ちかけられている時に今日の夕飯について考える人がコミュニケーションが上手いはずがあるだろうか?

夕飯の例は極端だとしても、
かつての私を振り返ってみると、他の人が会話中に目を向けていたものは私が目を向けていたものと違っていたし、その時私はそれが違っていたということに気付けなかった。


「それに集中せよ」とあえてそれが何か特定しないことには理由がある。よくあるコミュニケーション術に関する自己啓発書は〇〇せよ!と特定したものを強要してくるが、私はそれが逆効果にしかならないと思っているからだ。
特定の教訓を実行しようとすると、それが出来ているかということの方に意識が向きがちになる。

〇〇こそが肝心だ…
〇〇しなきゃ…


しかしこの場合、その教訓は先程の例でいう夕飯になってはいないだろうか。



…ここで少々話がずれるように見えるかもしれないが仏教について語らせてほしい。
悟りとは何かと聞かれたらあなたは何と答えるだろう。


よくわからないけど、なんか世界の真理に辿り着いた状態?




うん、そうとしか言いようがないと思う。


西洋哲学が真理を言葉を表現する一方、
仏教における真理、すなわち悟りというのは真理の体験そのものである。
"それ"は言葉では語れないのだ。

西洋哲学では言葉による心理究明を目指していたが、(分かる、の語源にもなっているようにこれは分別智と呼ばれる)
仏教では
天上天下唯我独尊、つまり世界を言葉によって分別しない境地を目指す。

そして唯一絶対の真理という体験を求め、
そこに辿りつくのであれば言葉による理解や方法は重要でない、だからこそ
お釈迦様は相手に応じて全然違うことを話すし、
座ってみたりナゾナゾをしたり、踊り念仏といった悟りへのあらゆる方法論が仏教には存在しているのだという。

私はこの話を聞いた時、コミュニケーションの方法論そのものだと思った。



コミュニケーションは貴方が良いと思えばそれでいいのであって、
あらゆるテクニックは
(ソレニシュウチュウセヨというおまじない含め)さほど大事でない。

何が見える?何を感じる?何を話す?相手はどうリアクションする?

そういった常に変わり続ける「今」になんとなく反応し続け、ノリともいうべき自分なりの話し方をなんとなく確立していくことだけが、
世間一般で言われる
"コミュニケーション能力を上げる"
のやり方なのだと思う。

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