No.29 魚釣りから考える肉食と殺生 その7 現在の日本寺院での肉食
「うちは魚釣りはできない。殺生だから」との言葉をきっかけに、仏教の戒律や肉食の歴史を考えるシリーズその7、現在の日本寺院での肉食・魚食として少し整理してみたいと思います。
その4で江戸時代は浄土真宗を除いてお寺での肉食は禁止されていたことを整理しました。そして、明治5年の「僧侶の肉食・妻帯勝手たるべし」という太政官布告によって、徐々に日本全国のお寺で肉食妻帯が普通になってゆきます。
そうして現在、精進料理という料理の「カテゴリー」はあっても、実際に精進料理で生活している方はほとんどいらっしゃらないかと思います。普段はお肉も食べるし、お魚も食べる。浄土真宗本願寺派ではお坊さんの資格を取る時の合宿でもお肉・魚は出てきました。
ただ、なんでもありというわけではないようです。浄土真宗の篤いところでは、親鸞聖人の月命日の16日には殺生をしないようにと漁自体を行わない漁村があり、また網を引くときに「南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏・・・」とお念仏が出る地域もある。そういう漁村の僧侶の先生が、「わしらの村は報恩講の時はお魚を食べんのよ。」とおっしゃっていました。報恩講のお斎(食事)はお精進、という習慣は本山の本願寺、およびその別院では続けられていますし、末寺でもお精進を続けているところも多くあります。
そのようにして、いのちに向き合うことを宗教儀礼の中に取り込んでいたと言えます。
一方で、他の宗はどうなのか。曹洞宗では「食べて成仏」という考え方をしているとも知りました。全てのいのちが仏性をもち、そのまま仏、という曹洞宗の立場では、
等と考え、肉食によっていのちを頂くことを受け止めているようです。
このように、罰則がないから何でもありとするのではなく、日頃できない精進を宗教儀礼の中で行う、宗教的に歩む中で肉食を捉えなおすなど、現在の日本の寺院では肉食についての問題点を踏まえながらも、何とかそこに意義を見いだしています。だから、食事の前に合掌(手を合わせるという宗教的作法)をし、「(いのちを)いただきます」と言うことが大切です、と繰り返してきたのだと思います。
以上、ここまで7回に渡ってざっと古代インドから現代日本に至るまでの仏教における肉食と不殺生戒について整理してきました。次回、最後は魚釣りをもう一度考えてみたいと思います。
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