『智者道徳に遠し』:偏差値と中庸

内村鑑三の『代表的日本人』を読んで以来、二宮尊徳の思想に関心を持って来ました。代表的な著作は『二宮翁夜話』と『報徳記』でしょうか。その『二宮翁夜話』のなかに、第101節として、『智者道徳に遠し』とあるのです。少し引用してみましょう。

「翁はこう言われた。才智すぐれた者は、多くは道徳に遠いものだ。文学があれば、申不害や韓非子の刑名の学を唱え、文学がなければ、『三国志』や『太閤記』を引く。『論語』『中庸』などには一言も及ばないものだ。なぜなら、道徳の本理は、才智では理解できないものだからだろう。この傾向の人は、かならず、行ないやすい中庸をむつかしいとするものだ。『中庸』に、『賢者は中庸を越えて高尚の行ないをする』とあるが、もっともである。(後略)」

ここで二宮尊徳が引いている『中庸』の原典を読んでみました。

子曰く、「道の行われざるや、我、之を知れり。知者は之(中庸)に過ぎ、愚者は及ばざるなり。道の明らかならざるや、我、之を知れり。賢者は之(中庸)に過ぎ、不肖者は及ばざるなり。(後略)」『中庸』第二節

孔子は、知者・賢者は中庸を越えてしまい、愚者・不肖者は中庸に及ばない、と述べています。では、「低俗」がいけないのは分かりますが、「高尚」がなぜ道徳に適わないのかを考察してみたいと思います。

江戸時代初期の陽明学者・中江藤樹は、徳を「本」、智を「末」と定めました。そして、弟子の学識や才芸よりも人格や徳性を重んじました。また、同志社大学の創設者、新島襄は、学生たちに「智徳併行」の重要性を説きました。中江藤樹の考えでは、新島襄の言う「智徳併行」ができないならば、「智」という「末」を捨てて、「徳」という「本」を努めるべきだとも述べています。

現代に生きる私たちにとって、「徳」という言葉は抽象的で漠然とした印象を受けます。そこで、孔子の『中庸』にしたがって、道徳=中庸と措定してみましょう。

世の中には賢者もいれば愚者もいます。そして知能テストの結果が下図のような正規分布になることはよく知られています。身長の高低、体重、あるいは貧富なども原則的には正規分布に従います。


孔子の有名な「過ぎたるは猶及ばざるが如し」の考え方を正規分布に適用すると、中庸(平均値)において、私たちのパラメータは最適化されるのです。
 にもかかわらず、現代の私たちは、学校の偏差値などで、偏差値が高ければ高いほど良い、という単純な比例式を思い描くのです。学校の偏差値には、なぜか50が加えてあるのです。おそらくは、負の数の偏差値を出さないためでしょう。それが、上図のような正規分布の曲線ではなく、比例の直線を思い描かせる原因となっているのです。
 賢愚、美醜、高低、貧富など、正規分布にしたがうものは、中庸で最大効用を迎えるのです。西洋の世界でも、aurea mediocritas(golden mean 黄金の中庸)と言って、中庸の徳が古くから重んじられていました。原始仏教においても、中道は重要な考え方であったのです。何事も「バランス」が大事だということです。

今、道徳=中庸と定義したのですから、冒頭の二宮尊徳あるいは孔子の、「賢者は中庸を越えて高尚の行ないをする」という言葉は、ネガティブな意味合いを持っていると言わざるを得ません。「適度」、「ほど」を守ることが道徳的であると言えるでしょう。二宮尊徳の言葉「智者道徳に遠し」はこのような意味合いを持っているのかも知れません。

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