肉体と精神と『本物の愛』

池田晶子は幾つかの著作のなかで、「アンチエイジング」について論じている。そのうちのひとつを引用しよう。

「だいいち、アンチエイジングを掲げて生きられる人生の、その『最後』、人は、どのようにして死ぬのでありましょうか。アンチエイジングという思想は、人はどのようにして死ぬのかということを教えられるものでありましょうか。美と健康こそ人生の幸福とする思想は、必ず訪れる死という現実に対処できるものは持っていない。どう考えてもこの思想は、人間の思想としては、浅薄かつ不可能なものだと言えましょう。
 そもそも、この思想自体がどこから出てくるかというと、人生の価値を肉体に置いているからだということが、すぐにわかります。肉体が美しく、肉体が健康であることが、人生の価値なのだから、肉体が老いて衰えれば人生に価値はない、となるのは当然です。さてその価値のない後半生を、我々はどうやって生きていったものでしょうか。
 これはもう言うまでもないことです。人生の価値を精神に置くことです。人生を救い、後半生を素晴らしいものにするには、自らが自らの精神に価値を置く以外はあり得ない。
 『精神』といって、特別な難しいものではない。この普段の心とか気持ちとか知恵とかいったもののことです。こういったものが、肉体が老いるのに反比例して、賢く、味わい深いものになっていることに、もし精神に価値を置くなら必ず気がつくはずなのです。年をとるほどに、精神は、人生は、おいしいものになっていく。これは実感です。せっかくの人生、後半生の醍醐味を取り逃すのは、本当に惜しいことだと思います。」(『死とは何か』)

プラトンの『アルキビアデス』のなかにも、肉体と精神(魂)について、重要なくだりがある。

「ソクラテス『してみると、もし誰かアルキビアデスの肉体に愛着した者があるとすれば、それはアルキビアデスに恋愛したのではなくて、アルキビアデスの付属物の何かひとつを求めただけのことになる。
(略)
ソクラテス『これに反して、きみに恋愛する者というのは、きみのたましい(心)を愛する者なのだ。
(略)
ソクラテス『それでは、きみの肉体を愛する者は、その花ざかりが過ぎれば、離れて遠のいてしまうわけではないか。
(略)
ソクラテス『うん、ところがそのたましいを愛する者は、それが向上の途をたどっているかぎり、離れ去ることはないのである。』」

プラトンの考えに従えば、肉体は付属物であり、精神(魂)こそ本質なのである。
以下に、パラリンピック・アスリート佐藤(谷)真海さんの著作を引用しよう。

「(前略)そのなかでも入院当初から同部屋で、一番長く時間をともにしたのは年上の恵美子さん。
恵美子さんは、以前に乳がんを経験し、このときはお腹にまた別の肉腫ができて入院したのだった。
 恵美子さんは、私が『こんな大人の女性になりたいなあ』と思うようなまぶしい女性。手術で取り除けない腫瘍を抱えながらも常に前向きでハツラツとしていて太陽のような存在だった。
 恵美子さんとは、友だちや学校のこと、食べ物のこと、恋愛のことなど本当にたくさんの話をした。
 慣れない苦しみの連続で、逃げ出してしまいそうになるたびに何度も救ってくれた。
 髪が抜け落ちて涙をこらえていたときは、『治療が終わったらまた生えてくるし、ウィッグもいいものがあるから大丈夫よ』と笑顔でフォローしてくれた。
 抗がん剤に弱かった私が、カーテンを閉めきって耐えているときも心配してくれて、飲み物や食べ物をもってきてくれたり、なにか少しでも力になれればと声をかけてくれた。恵美子さんといっしょにいるとすごく楽しくて時間を忘れた。治療の合間、ふたりとも元気なときは、病院の近くの銀座までいっしょに食事をしに外出したこともあった。
 恵美子さんからは『本物の愛』も教えてもらった気がする。
 手術をする前に、
 『私、義足になったら、結婚できなくなるかもなあ……
と漏らしてしまったことがあった。
 そのとき、
 『真海ちゃんには絶対に大切に思ってくれる人が現れるから心配しないで。絶対大丈夫よ!私が保証する』
と返してくれた。表に出せない苦しみも、恵美子さんになら話すことができた。
 恵美子さんは乳がんで片胸を切除していて、このときはまた違う病気を抱えていたが、それでもいつもそばにいてくれるパートナーがいた。心の深いところでつながっているようで、ふたりを間近で見ていて、これが本当の愛なんだなと感じていた。そして、私もいつかこういう人に出会えたらなとおもった。
(中略)
 私は、『病気に感謝する』というキレイなセリフはどうしても使えないけれど、でも病気をしたことによって、命の尊さや本当の幸せというものを教えられた。その思いも少しでも多くの人に伝えていきたい。(後略)」(佐藤真海著『夢を飛ぶ―パラリンピック・アスリートの挑戦―』)

以上の引用文から分かることは、肉体にのみ価値を置く人々は、前半生は楽しいかも知れないが、後半生は空虚な思いをせざるを得ず、また『本物の愛』に触れることなく、その生涯を終えることになる可能性が高い、ということである。
 若い頃は、どうしても外見・肉体に惑わされてしまうが、人生も半ばを越えると、人物の内面・精神を見る力が備わってくる。前半生、隠忍自重して、内面の充実に励んできた人は、後半生において、素晴らしい果実を味わうことができるかも知れない。

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