「陛下の赤子(せきし)」:人間の社会性を考える

日露戦争、旅順攻略戦において、二百三高地を陥落させるべく、乃木に代わって児玉が第三軍の指揮をとることになった。児玉が出す命令は、第三軍の将校たちにとって驚くべきものであった。二十八サンチ砲という巨大な大砲によって、二百三高地を駆け上がる兵たちの援護射撃を断続的に行う、というものだった。佐藤鋼次郎砲兵中佐は即座に反論した。

「となれば、味方を射つおそれがあります。おそれというより、その公算大であります」

児玉は平然と、「そこをうまくやれ」と答えた。
佐藤は、激した口調で反論した

「陛下の赤子(せきし)を、陛下の砲をもって射つことはできません!」

明治維新後、版籍奉還によって、土地と人民は天皇に奉還された。それ以後、太平洋戦争の敗戦に至るまで、国民は、「天皇の赤子」と見做されていた。

現在を生きる我々からすれば、考えられない思想であるだろう。
しかし、日本は地理的に隔絶した島国であり、民族もほぼ単一と言っていい国家だった。その条件が、日本の社会性を高度なものにしたと考えられる。

生物界全体を見渡せば、とりわけ昆虫の中に、社会性昆虫という種が幾つかある。そのなかで、ミツバチの生態を観察していると、「社会性」というものが、生物界の一つの原理として働いていることが分かる。

ミツバチの幼虫のなかで、ローヤルゼリーを多く与えられたものが、やがて女王バチとなり、他の幼虫はハタラキバチとなる。ハタラキバチはメスだが、女王バチの分泌する女王物質というフェロモンによって、ハタラキバチの卵巣は成熟を抑制される。そして、ハタラキバチは女王バチが生んだ幼虫に蜜を一生懸命運ぶのである。言ってみれば、ハタラキバチは甥や姪のために一生懸命働くのである。それこそオオスズメバチが襲来したときには、多大な犠牲を払って、巣を死守するのである。

つまり、ミツバチは、その巣と社会がひとつの「個体」として機能している。これは、極めて高度な社会性である。生物個体の生存よりも、種の生存が優先されるシステムが、先天的に埋め込まれているのである。

話を明治維新から敗戦までの日本社会に戻そう。かつての日本は、他の社会に類を見ない、高度な社会性を実現していた。あたかも、日本社会がひとつの大家族のような様相を呈していたのである。そのような環境においては、個体を維持するための生理的・金銭的報酬系よりも、種や社会の存続を優先する社会的報酬系が極めて大きな役割を果たしていた。それがために、とりわけ太平洋戦争では多くの悲劇を生んだと言える。

敗戦からまもなく80年。日本社会は様変わりを遂げた。かつて巨大な家族だった社会は、核家族化が進展し、自分が「天皇の赤子」などとは夢にも思わないだろう。そのほうが人間にとって健全であると言える。

けれども、戦前、戦中の日本社会が、異常な在り方であった、と見るのは早計である。生物界を見渡せば、生物個体の維持と繁殖のみを目的としない生態を持つ生物種が数多く見受けられるからである。

個体(自分)よりも種(社会)を優先する遺伝子は、すべての人間のDNAのなかに潜んでいるのである。

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