教育の「本末」

4年前まで、薄給ながらも、英語や数学で口を糊していました。そして今、新しい職探しをするに当って、どうしても英語や数学を利用して働く気になれないのです。もちろん、それには4年間のブランクが影響しているからですが、もう一度、英語や数学をブラッシュアップして、ブランクを乗り越えようとは思えないのです。一言で言うと、英語や数学がつまらなくなってしまったのです。

夏目漱石の『野分』に次のようなくだりがあります。

“英語を教え、歴史を教え、ある時は倫理さえ教えたのは、人格の修養に附随して蓄えられた、芸を教えたのである。単にこの芸を目的にして学問をしたならば、教場で書物を開いてさえいれば済む。書物を開いて飯を食って満足しているのは綱渡りが綱を渡って飯を食い、皿廻しが皿を廻わして飯を食うのと理論において異なるところはない。学問は綱渡りや皿廻しとは違う。芸を覚えるのは末の事である。人間が出来上るのが目的である。大小の区別のつく、軽重の等差を知る、好悪の判然する、善悪の分界を呑み込んだ、賢愚、真偽、正邪の批判を謬まらざる大丈夫が出来上がるのが目的である。

道也はこう考えている。だから芸を售って口を糊するのを恥辱とせぬと同時に、学問の根底たる立脚地を離るるのを深く陋劣と心得た。"

夏目漱石の言わんとするところは、英語や数学は【芸】であり、教育の【末】であるということです。【芸】といえば、現代でいうところの「スキル」と言い換えることができるでしょうか。漱石は、教育の目的はスキルを身につけることではない、と述べているのです。

儒教の『大学』には、
「物に本末有り、事に終始有り。先後する所を知れば、則ち道に近し」
とあります。
【木】でいえば、根が【本】であり、枝葉が【末】。人間で言えば、徳性が【本】で、知能、技能は【末】であり、人間を創る上ではまず徳性を涵養し、身を修めることが大事だということです。

新島襄の言葉に、
「教育の目的は人材の養成にあらず、人物の養成にあり。」
とあります。スキルは人材に当たり、徳性は人物に当たると言えるでしょう。
教育の【本】は徳性の涵養、【末】は才芸の錬磨、と言えるでしょうか。
この「本末」が「顛倒」しているのが現代社会です。新島襄は「智徳並行」を主唱しましたが、中江藤樹は「本末兼備」ができない場合には、「末」を捨てて「本」を努めるように主張しました。それが現代では、才芸を磨くことのみに専念して、徳性は閑却されています。

『菜根譚』のなかに、
「徳は才の主、才は徳の奴」
とあります。

現代の学習塾のほとんどが、英語や数学の才芸を磨くことを主眼とし、難関校にどれだけ進学実績を上げたかを目的としています。同じ塾でも、かつての、松下村塾、適塾、慶応義塾などとは、全く異なる性質のものです。そういう塾で働くなら、違う業種を選んだほうが、自分の精神に矛盾を感じなくて済むと思っています。

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