幸せな苦学の思い出

京都は大学が比較的たくさんあります。
私が学生の頃には、京都の大学群が協定を結んで、京都コンソーシアムという制度を作って、他大学で学んだ単位を互換してくれる制度が導入されていました。
私は文系でしたが、高校時代には物理や数学に強い関心を持っていたので、単位互換制度を利用して、京都産業大学まで天文学や宇宙物理学の授業を受けに行っていました。

その頃の私は、相当な変わり者で、お弁当を自分で作って、公共交通機関をなるべく使わず、自分の足で歩くことにこだわっていました。
今出川から京産大のキャンパスまで、賀茂川沿いを片道1時間半、歩きました。

当時、同い年の矢井田瞳がブレークした頃でした。京産大のキャンパスで昼休みにOver the Distanceを聴いたのを思い出します。

苦学というと、本当は経済的困窮のなかの勉学を意味しますが、私は、普通の学生の3倍は勉学に励んだという自負があります。そういう意味での苦学です。

当時は苦しくしんどい思いばかりでしたが、今振り返ると、その苦学をしていた過程が幸せな思い出として心に刻まれています。

これまでの記憶を精査してみても、当時はしんどくて仕方がない記憶こそが、今では幸福として捉えられている、このことについて考えました。

誰でも、勉学に仕事に、一生懸命頑張っている時期は充実していて、この「充実感」こそが「幸福」の実体なのではないか、と。
頑張っている時期は、とても苦しくしんどいものです。だから、その「苦しみ」が即ち「幸福」ということになります。

文筆家の池田晶子さんの文章に次のようなものがあります。

「努力とは、必ず苦しいものである。楽な努力、そんなものはない。(略)善くなるための努力は、必ず苦しいものである。しかし、善くなることは幸福になることなのだから、これをつづめて言うと、

  善く苦しむ
  苦しみは喜びである

幸福とは、これである」

(池田晶子『残酷人生論』)

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普通、楽なこと、楽しい思いをしているときが幸福だと捉えられがちですが、実際には、しんどいこと、苦しい思いをしているときが、メタ認知というべきか、メタ認識というべきか、実は「喜び」なのではないでしょうか。

認識とメタ認識はπ(180°)位相がずれている。

ある教育家の文章に、「安逸を得るこそ人間最大の幸福と誤認し・・・」とあります。
ということは、仕事に勉学に精を出して励むこと、つまり「刻苦精励」こそが「人間最大の幸福」なのかも知れません。

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