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海に行かなくちゃ病

海の近くに暮らすようになって1年半以上が経った。
都心まで電車で2時間近くかかる小さな街だ。夜は9時を過ぎればあたりが真っ暗になる。

引っ越す前は都心に一人で住んでいた。徒歩1分の距離にケンタッキーがあり、コンビニがあり、カフェもご飯屋もあった。駅で3分も待てば山手線がすっ飛んできた。隣駅には大型デパート、家電量販店や劇場があった。車がなくても1日のうちに買い物も娯楽も食べ物も望むがまま、(お金に限りはあっても)いくらでも選択肢があった。職場は家から近く、仲のいい友人たちも周りに住んでいて、深夜まで飲むこともしばしばあった。東京の生活をそれなりに満喫していた。

でも、気がつくと、心身が疲れていた。
都会の異常な人混み。街行く人々の歩くスピードがやたら速いこと。救急車のサイレンや店先の大音量の音楽など、聞こえてくる雑音が多いこと。洋服や雑貨をいくら買っても、足りない気持ちになっていること。

縁あって出会った相手は海の近くに住んでいると言った。
それは素敵ですね、と私は言った。彼のおっとり、のんびりした性格がいいなと感じた。それからとんとん拍子に交際が進んで結婚し、私は迷いなく、相手方の住む街に引っ越した。

家からはバスに乗らないと駅まで行けないし、電車の本数も少ない。一番近いスーパーに買い物に行くには、やたら長い坂を登らなければいけない。家の近くにおしゃれカフェやファストフードはあるわけない。そもそも昼間から人影が少ない。友人たちの家も職場も遠くなってしまった。
一気に生活の情報量が減り、スピード感が落ち、不便さが増した。そのゆるい感じに自分の体感が合わず、イライラするばかり。田舎でのんびり「豊かで丁寧な暮らし」なんてそんなの嘘だ、でっちあげだと思った。

しかも、肝心の海や山、田園といった自然の風景は、思ったより私の心に馴染んでこなかった。絵葉書のような美しい絶景とは違って、周りに雑草がぼうぼうに生えたりして、飾り気のない普通の景色がそこにあるのだった。いくら見ても、何かこう、胸に迫る感動というものは特に感じなかった。
しかし、感動はなくても、海が近くにあるなら、見に行かないといけない。
海なし県育ちの私はそんなアホのような義務感に囚われた。理由はないが、せっかく海があるのに見ないなんて、損したような気がしてしまう。なので、海まで散歩に出るのが日課となり、海を見に行けなかった日はそわそわとして落ち着かなかった。

「そこにあるな〜っていうだけだよ、海なんて」

この街で育った夫はこともなげにそう言う。わざわざ近くの海を見に行ったことなんて、大人になってからほとんどない、というから驚いた。
自分もそんな境地になることがあるのだろうか。海に行かなくちゃ落ち着かない気持ちを抱えて、これからずっと歳をとっていくのもしんどいことだ…。不安を感じた。

しかし、思ったよりすぐ、そんな境地はやってきた。

次第に日々の生活のペースができ、移動時間にかかる時間もやり過ごすようになった。近所でお気に入りのピラティス教室やマッサージサロンを見つけた。自転車で行ける範囲に美味しいパン屋さんもあった。車でショッピングモールや近場の温泉に出かける楽しみもできた。
そんな暮らしの中、強制的な「海散歩」時間は減り、海はただ、移動途中でちらっと見えたり、ピラティス教室の窓から見えたりする景色の一部になってきた。海に行かなくちゃ病は急性期を脱したようだ。

その証拠に、会社の後輩(同じ海なし県出身)から「最近、海の方に引っ越したんですよね? やっぱりしょっちゅう海に行くんですか」と聞かれた時、私は答えた。

「海? そうねー、たまに行くくらいかな〜」

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