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パラドックス

 部屋の鍵を閉め忘れていたのか、在宅勤務中の僕の部屋に女子中学生が入ってきた。左手にスーパーのレジ袋をぶらさげている。
 毛の細い髪質、色白の肌、見据えるような冷たい目線、薄い唇。つまらなさそうな表情で、その子はつかつかと部屋の奥へ進む。
 誰だったか、顔つきが知り合いに似ている気がしたけれど、この子に面識はない。女性の知り合いすら少ないのに、中学生となると、もっとない。
「え、何々。きみ、誰……」
 動揺で声が震える。けれどその子は、答えなかった。鍵を締めていなかった僕のせいもあるけれど、無断でずかずか人の部屋に入って来るのはいくら子どもと言えどいただけない。
「誰なの? だめだよ、勝手に入ったら」
 先ほどより怒気を込めて注意すると、その子はこちらを向いて、「昨日助けていただいた亀でございます」と口を開いた。
「本日はその御礼をと思いまして、お邪魔させていただきました。人に変化したばかりで、ご無礼をいたしました。御許しくださいませ……」
 そうか、と思う。これで納得するのもへんな話だが、昨日たしかに僕は亀を助けていた。車通りの多い道路をのそのそ横断していた一匹の亀を、捕まえて向こうの草むらまで連れて行ったのだ。
「ほんとにあるんだ。鶴の恩返し的なやつ……」小声でつぶやく。
「どうかされましたか?」
「ううん、なんでもない」
「つきましては、しばらくキッチンをお借りしたいのですが……」
 そう言って亀の少女はキッチンの方を見る。
「ああ、いいよ。遠慮なく使って」
 少女は、ありがとうございます。と丁寧にお辞儀をしてキッチンへ向かっていった。
 僕には中学生趣味があるわけではないので、亀から見た人間の性的趣向が歪んでるのかもしれないと思った。
 しばらくして彼女は料理をのせたお盆を手に戻ってきた。
 お盆には湯気を立てた白米、たくあん、小松菜の煮浸し、根菜の味噌汁、鮭の塩焼き。デザートにプリンまでついている。
「すっごくおいしそう。どうもありがとう」
 根菜の味噌汁から立ち上る湯気がやさしい。一人暮らしで焼き魚なんてひさしく食べていなかったから、焼き鮭が出たことに内心で小躍りした。
「御礼には及びません。恩返しですので」
 そう言って少女は目を細くして笑った。笑った顔がやっぱり誰かに似ている、気がする。
「いただきます」誰だろう?
 まあ、いいや。そんなの詮索するなんてやぼだし、礼は素直に受け取っておこう。
 味噌汁茶碗を持ち、すする。
(へんだな。味がしない?)
 大根、にんじん、こんにゃく。つづけて具を口に運ぶも、あたたかい食感だけで風味が全くない。
 ふと、気がついた。
 昨日、僕は亀なんて助けていない。そもそも、僕は部屋から一歩も出ていない。
 飲み込む。喉を通った味噌汁の具が食道におりていく。
 つかの間、強烈な吐き気で呼吸ができなくなり、茶碗を床に落とす。
「ねえ、ほんとは、誰なの……」
 息苦しさに意識が掻き消える頃には、その子は姿を消していた。けれど今になって結びついた。毛の細い髪質、色白の肌、見据えるような冷たい目線、薄い唇。なぜ気づかなかったんだろう。少女は僕の顔とそっくりじゃないか。

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