社会は変えられる

社会人を通して、フリーランスになった今も、憂鬱でネガティブになることがある。沢山ある。
世の中はどんどん予測不能になっていくし、友人もあまりいないし、不安しかないと言えばない。
自己啓発とかマインドフルネスとか、いろいろ頑張っていると思う。

ところでこういう前置き、井上ひさしさんはだいたい無駄、削除と言っていた。尊敬する有名な言葉に「あなたしか書けないことを、誰にも分かる言葉で書く」というのがある。
無駄な前置き削除せずすみません。

憂鬱から自分を救おうと思っているときに聞き齧った、リズブルボーさんの五つの傷という本について(持っていなくて読んでもいないのですが)、
自分は、「侮辱による傷」にめちゃくちゃ当てはまると感じて、それから、↓に書くことを一気に思い出し、書き、癒され、社会まで変わりそうです。

いつか、誰かが読んで共感してくれたら嬉しく思います。

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侮辱による傷に気づく

侮辱による傷=
屈辱感 恥ずかしい 記憶 経験

最初にことわると、多分この傷は母も多く持っているものということと、私は母が好きで母も私が好きで、多分そこには愛がある。仲も良い。

※※※※※※

まだ赤ちゃんの頃、兄に嫉妬され顔に跡がずっと残る傷をいくつもつけられた。

母は兄の方を心配して、私が傷ついたことは軽視した。

多分恐怖は体に刻まれていたけど、確かに記憶は無いし、そういうものなのだと思った。


小さい頃の兄は癇癪持ちで、よく寝る前に癇癪を起こして両親が心配や対応をしていた。


その頃から私の初期の記憶として、寝る前に何だか不安という気持ちがあり、それを言ったのだけど、兄ほどの問題とは思って貰えず流されていた。


見た目など可愛いのは兄で、私は女の子らしい格好をさせて貰えなかった。そうする事に母から嫌悪を抱かれている気もした。可愛くしない様に心配されているように感じた。


私は長いことおねしょが治らなかった。治したいという強い意志は持てなかったけど、外でその事がバレるのはすごく恥ずかしくて、外で誰かに打ち明けたりはしなかった。



祖父は人格が幼稚で狂暴なところがあり、私はそれをとても恥ずかしく思っていた。


外では祖父がどんな人か話せなかった。


お酒を飲むと暴れて、お祭りだとそれが外で露になってすごく恥ずかしかった。


祖父が父に取り押さえられているのを見るのも怖いと同時に憐れで恥ずかしかった。


私が小学生の頃、祖父が父を包丁で刺した(起きがけに卑怯にやった)、という事件が起きた。父が入院して、家には警察が来て(動揺した祖父が自分で呼んだ)、私が学校から帰ったのは事が終わった後だったけれど、それがショック過ぎて、恥ずかしくて、外では誰にも言えなかった。

家族含め自分はどん底にいると思った。


その事件が起こる前、祖母が脳梗塞で寝たきりになり、起きているけどしゃべることも動くことも出来ず、母が流動食とオムツ替えと、自宅で全て介護していた。母が聖人のようにしていた。


家族含め自分は底辺にいると思ったけど、母が聖人で何か崇高なものとして理解した。


事件で祖父とは別居してから、寝たきりのまま祖母が亡くなった。父は祖母が多分大好きで、ずっと祖父から守ってもきた。その父がとても辛そうにしていた。

母もしょんぼりしていたけど、母も祖母もずっとめちゃくちゃ大変で可哀想だった。それが終わった。ただ父がとても悲しかった。


↓ここからは多分、不正の傷、多分、父も多く持っているものなのかも


祖父が伯母さんの家の地域の病院に入院後、暴れて騒ぎながら亡くなった。

伯母さん夫婦が祖父を引き取る為(多分世話をしていた実績を作ろうとしたんだと思う)家に連れて行ったその日、家に入る時玄関で転んだので、入院させたそうだ。

怪獣のような祖父を一瞬でも受け入れるのが無理だったんだと思う。

伯母さん夫婦の行動を怪しく思った。


伯母さん夫婦から、早々祖父が亡くなると同時に遺産相続の話をされる。父が怒り出す。祖母の苦労と、母の介護の苦労を言う。


(ここでは触れないが、伯母さん夫婦にも事情がある)



↓ここからまた侮辱による傷だと思う。



祖父が亡くなってすぐに、

父が、白血病になる。人生一番の絶望感。

母も、兄も3人で目の前が真っ暗。

あんまりにもショックで、私は誰にも言えなかった。ショックの感情を抑えるので精一杯。


父は一年くらい闘病した。髪が抜けて、痩せて。母はもしかしたら大丈夫かも、やっぱりもうダメかもという話を繰り返していた。希望が持てなかった。ずっとショックで絶望感で、本当に寂しくて、誰にも話せなくて、感情を抑えるのにやっとで、外の風景も白黒みたいに見えていた。


希望が持てないまま、父が亡くなった。

家族みんなが、それだけはやめてと思ったこと、そこに行き着いた。


一年間ずっと絶望で、それで父が亡くなったところに落ちた。

私と母と兄は絶望的にどん底の更なる底に落ちたと思った。


私は悲しみを外で出せなかった。

でもいつも、常に悲しくて、いつでも泣けた。なので、外では止めるやり方を習得した。


母は、また聖人の様に働きに出て、真面目に良い人で、残業も沢山して仕事をした。


母は、兄のショックを気にかけて、兄が浪人したのを、大変な年頃にショックな事があって、兄はすごくショックで可哀想だったんだと言い、それに比べて私は少し年が若かったからまだ柔軟でよかったんだと言った。


母も弱っていて、兄を労るだけで精一杯なんだとも思った。

母と空気を読んだ私で、私は大丈夫という事にした。


家族に対しても、悲しみを出せなかった。平気な振りをしていた。

一人の時にはいつも泣いていて、ずっと長い間悲しくて、誰にもそれを出さないで、分かってくれる能力のある人もいないと思っていた。

しかも、話そうとしたら、自分を保てないし。


父が亡くなった悲しみが一番大きい時、それを誰にも出せなかったとき、辛いことがあった。


学校の実習で5、6人くらいの班で教官が付いて教えていた時、その教官がみんなの前で突然、父親はいた方が良いという話を始め、父親はいた方が良いんですと言い、どう思いますか?Rさん?、と私に尋ね、いた方が良いと思いますと言わせ、みんなに、彼女は父親がいないですからね。と言った。

感情を止めて、どうにもならないようにしたけど、涙を止められたけど、鼻から水が出てきた。


(ここでは触れないが、この教官にも事情がある)



↓ここからまた不正による傷かも


父が亡くなったばかりで、感情も抑えて、放心状態でもあった時期、伯母さん夫婦が頻繁に家に出入りして、家財道具など物をどんどん持って行った。

思い入れがあるから、だそうだった。


母にだけ断って家に入って来て、私と兄がそこに座っているのに、まるで見えてないみたいに通り過ぎて、物をどんどん運んで行った。


父の遺影の後ろに置いた茶釜だけ残った。


金の亡者のように思った。


私たち家族は父を亡くしたばかりで、放心状態で弱っていて、母は一人で弱々しくも司法書士に相談に行ったりしていたけれど、結局どうにもできなかった。


伯母さん夫婦は現金の遺産を全て相続することを目的にしていて、土地の値段などいろいろ調べたりして、それを主張した。

それが実現する前にも、祖父のお見舞いにかかったお花代や交通費を遺産のお金から出すように請求し、母が対応して全てその通りにした。


父は祖母が働いて頑張って貯めたお金だと言って、伯母さん夫婦に全ては渡したがっていなかった。


でも私たちはもう父がいなくて、悲しい事が大き過ぎて、そういうことにまでどうにも意識は及ばなかった。


人生で一番の、喪失の状態にいると思った。

だんだんバカバカしくも思えるようにもなっていった。


※※※※※※


↑心の傷に気づくと、それは癒されるとのこと。

もう一度やり直せるとしても同じ人生をやりたいと思えると。


私は、泣いたり思いを巡らせたりして、やっぱり絶対同じ人生をまた過ごしたいと思う。

私は家族と傷ついた経験をした一方で、何よりも楽しくて幸せな経験もしている。

だからこその悲しみでもある。


またあの家族で過ごせるなら、本当にまた経験したい。みんなに会いたい。


もしももう一度やるなら、今度は何か変えたい事があるだろうか?


私は、悲しいことやショックなこと、恥ずかしいことを誰にも言えなかった。


それを言おうと思う。弱さや感情を出して。


そうしたら、私の生きている社会は、共感してくれたり守ってくれる社会になると思う。共感して守り合う、横に繋がる人達を社会の中心に置いて。


あの時どれもこれも大きければ大きい程、誰にも言えなかった、言わなかった。


その時私が創造したのは、そんな経験は理解出来ない、共感できない、受け入れられない、そういう人達を中心の上に置いた社会で、その底の端っこに自分を置いたんだと思う。


だから、言えなかったことを言えたら、社会が変わる。そのまま共感し合えたら社会が変わる。


何も誰も変わらず失わず壊さず(引きずり下ろさなくても)、社会を捉える枠が変わるだけ。共感し合う横に繋がる人達が枠の中心にいる社会。


これを私は公開しました。

誰かがいつか共感してくれた瞬間に、私の社会は変わる。

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