たりてるようでたりてないかもしれないふたりによる、たりないふたり

2023年6月26日午前1時28分。
僕がTVerで「だが、情熱はある」を見終えた時間である。

正直、僕はこのドラマに対していい感情を持っていなかった。
ドラマの出演者が発表されたとき、僕が知っている人でも落胆している人はまあまあ多かったことを覚えている。

ひねくれていて、めんどくさくて、キラキラとは程遠い輝き方をしている山里亮太と若林正恭。
真っ当で、誠実で、キラキラとしか形容できない、眩い活躍をしている森本慎太郎と高橋海そして、2人にとって欠かせないキーパーソン、安島さんがまさかの女性で薬師丸ひろ子。

どう転んでも、上手くいくとは到底思っていなかった。
せいぜい、ジャニーズのファンが自分たちの推しがドラマの中で絡んでいるのを喜ぶという形で消費されていくのだろうと思っていた。

ドラマに背を向けて、1秒たりとも視界に入れない選択肢ももちろんあった。
しかし、味を知らないまま叩くのは違うし、もしもそれがおいしいと話題になった時に食べなかったことを後悔するであろうことを察して、渋々TVerの再生ボタンを押した。


現実は、違っていた。


まず、主演の2人が異常なまでに「憑依」されていて、全身から「たりていない」オーラを放出させまくっていた。
喋り方や言い回し、細かいしぐさの随所に彼ららしさが醸し出されていて、一度目を閉じてしまえば、本人ではないかと錯覚してしまいそうだった。

そして、僕は安島さんはじめ、他の登場人物がところどころ現実とは離れていることに違和感を感じなくなっていた。
きっと、調整したのもドラマとしてスッと入りやすいようにした結果なのだろう。

要するに、みんなが知っている人物以外を無理に似せる必要はなかったのだ。
僕たちは彼らが自分の周囲の人がどんな人なのかをラジオを通して聴いているから、それぞれのマネージャーがどういう人か理解しているが、ドラマを見ている大半の人は、安島さんや彼らを支えている人に初めて顔を合わせることになる。
そこで現実を重視してしまうと、彼らの交友関係的にドラマの雰囲気として男くささが充満してしまうだろうし、ドラマとしてここまで見やすい形にはなっていなかったかもしれない。
僕はもちろん、現実に極限まで寄せていったバージョンのものも見てみたかったが、きっとそれは世間に求められていないのだろうし、ここまでドラマが話題になることもなかっただろう。

ドラマを通して彼らの人生に触れてもらえるような環境を作り上げる上では大切なことだったのだと今なら理解できる。


そして、スタッフ陣の情熱も素晴らしかった。

日常の中に紛れている小物まで、できるだけ彼らが実際に使っていたものに寄せていたことにとても感動した。
ラジオで「なんでメーカーまで知っているんだろう」と不思議がられてしまうほどの情報網を敷くなんて、どれだけの本気度があれば成し遂げられるのだろうか。

そして、彼らを知っていて損させない小ネタにも唸らされた。
「ファミレスのメニューを食べ尽くすロケ」
「若林さんが倒れたので、急遽春日さんが司会進行をやる羽目になったバラエティ」

僕たちは知っている。

そのファミレスのロケで若林さんは厨房に乗り込んで卵を全部割ろうとすることを知っている。
春日さんは単身でMCが円滑にできずに、若林さんLOVEを掲げ休んでいる彼のパネルにすり寄る女性アイドルに介護されながら、4週分の収録を深手を負いながらこなすし、その間に若林さんは江ノ島でコロッケを食べて休日を満喫していることを知っている。

本当なら山里さんの小ネタにも気づきたかったけど、あいにくリトルトゥースの成分が濃いから気づけませんでした。
無いとは思うけど、万が一このブログを見ていたら、怒らずにそっと画面を閉じて明日の朝に備えてください。

本気で好きになって3年しか経っていない僕ですらこのテンションなんだから、M-1の頃、さらにその前から好きな人にとってはとてつもないご褒美だったに違いない。


特に感動したものが2つある。

1つ目は、フルサイズの漫才。

芸人じゃないからと決して妥協せず、間や、ネタ中の細かい指の動きまでこだわっていて、当時の本当のM-1であの再現をそのまま持って行ったとしても騙せてしまえるんじゃないかと期待してしまう。

2つ目は、残酷な扱いをしていたテレビ局の罪に対しても真摯に向き合っていたところ。

「エンタの神様」なんて日テレの超大物が引っ張っていたにもかかわらず、きちんと番組名を晒していたから、「大丈夫?怒られない?」となぜか不安になってしまった。

しずちゃんさえカメラに収めて音を拾えればそれでいいと、マイクを外された状態で収録に臨まされた経験。
春日さんさえ活かせればそれでいいと、むつみ荘の企画で引き立て役に徹した経験。

悔しい思いが彼らを捻じ曲げ、同時に原動力を与えたという「功」と「罪」に目を逸らしていなかった。

そして、売れていくことで嫉妬されたり、心無い言葉をかつて信頼していた人から浴びたり、正反対のベクトルの苦悩にもスポットライトを浴びせて、それが現在進行形の悩みであるから、何も解決方法が提示されなかったのが生々しかった。

強いて言えば、2020秋の後に起きた軋轢と、若林さんの軌跡の乱入まで描いてほしかった気持ちもあるけど、さすがに贅沢すぎるか。

そして、「たりないふたり」に欠かせないもう1組の「たりないふたり」、クリーピーナッツ改めクリー・ピーナッツ。

演じていたのは、有吉の壁で彼らの物真似ネタをやっていたかが屋の2人だった。しかしネタとは違い、きちんと再現に徹していて、改めて演技力、プロ精神を感じた。加賀さん演じるDJ杉内がきちんとターンテーブルに手を伸ばしていただけでもう満足だった。決して棒立ちではなかった。

ドラマの時系列は、ときどき巻き戻しや早送りは行われるものの、基本的には二人の学生時代から売れない下積み時代、チャンス到来、テレビでのポジション獲得と、次第に現代に近づいてくる形だった。

これが新感覚過ぎた。

僕の年齢的に、2004年のM-1は伝聞、2008年のM-1はぎりぎり物心があるかないか、たりないふたりの始動あたりで記憶がはっきりしてきてという感じなのだが、段々とドラマの中で語られる内容が「何となく聞いたことがある」から「なんか見てたなあ」になってきて、「これ覚えてる!」「ついこの間、先週じゃん!」と自分の鮮明な記憶に段階的にシンクロしてくるのが一種の快感をもたらしていた。

ついにドラマのラストシーン、時代は現代、今この瞬間へと追いつき、追い越し、1日後の未来になっている。

仕事を終えたふたりは、帰り道に「漫才やりてえ」とぽつり。

それが果たしてこの先の2人での漫才への暗示なのかはわからない。


僕は思う。


漫才内で若林さんが言った、「明日のたりないふたり」のバトン。

それは、山里さんと若林さんの手から、ドラマの企画者へ、ドラマ内の山里さんと若林さんへと受け継がれてきた。

そして、その次にバトンを受け取るのは、案外「あの日のたりないふたり」山里亮太と若林正恭なのではないかと。

期待せずにはいられない。
でも、期待してしまっては解散の道を選んだ彼らへの配慮がたりない。
かといって、期待をやめるつもりもない。


僕も、なにかがたりない。


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