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ダイバーシティ(多様性)について

「情報化社会」の最大の弊害は

価値観の均質化

にあります。

資本主義社会の重要な構成要素は「物欲」であり、利潤追求を目標とする企業は、あの手この手を使って「(高額な)物に囲まれた生活こそが幸福である」と訴えます。もちろん自社の製品をバンバン買わせるためです。
人々は種々の媒体を通じて、生まれたときからその「放射能」を浴び続け、どんどん「精神を蝕まれて」いきます。

こうした「価値観の均質化」は、持つ人には「優越感」を、持たざる人には「劣等感」を植え付けます。
メディアは、

・都心の高層マンションに居住する若手起業家
・退職後に世界クルーズ旅行に出かける老夫婦
・美女をとっかえひっかえのイケメンタレント
・海外リゾート地で優雅に暮らす女優

などを特集し、さも「みんなの憧れ」であるかのように扱います。
そして、そうした環境にない庶民を「不幸」であるかのように見下します。

でも本来、「幸福」の定義は各人によって千差万別のはず。ある人にとっての「幸福」が別の人にとっても「幸福」であるとは限りません。
大事なのは、そうした「偏った情報」に惑わされず、

自分にとっての幸福とは何か

を問い続けることです。

「情報」に毒された人間は、すべてを「減点方式」で評価します。テレビに登場する「セレブのライフスタイル」を満点とし、そこから不足しているものを引き算していく。あれも足りない、これも足りない……両者の「格差」の間に生じるのは、「羨望」「嫉妬」「不満」といった強い「負の感情」です。
言い換えるなら、「他人と比較して自分を不幸だと思い込むことで、より不幸な状態へと陥っていく」ということです。

この「負の感情」を解消するために、ある者は「犯罪」に手を染め、ある者は自分よりも下の(と勝手に判断した)人たちを蔑むようになります。「差別」とは、自分の「劣等感」を他人に八つ当たりする行為です。
有名人が不祥事をやらかすと、ここぞとばかりにたたきまくるのは、やはり根底に「劣等感」があるからです。

「均質化」「多様化」の対極にある概念です。
人々がそれぞれの「価値観」を持ち、それを寛容する社会では、こうした「負の感情」は生まれにくくなります。他人と自分を比較して「優っている」「劣っている」と感じることがなくなるからです。

まさに、「みんなちがって、みんないい(金子みすゞ)」です。


多様性を喪失した集団は、じきに全滅する

これは生命進化の大原則であり、歴史的な真実です。
よって、「資本主義」に基づく情報社会は、初めから滅亡を宿命づけられているのです。

資本主義自体を否定しているわけではありません。「物欲」が文明・文化を進化させた側面が確かにあります。ただ、「最新型の電子レンジ」を必要とする人もいれば、要らない人もいて、是非・優劣はつけられないということです。

ある意味、私は「究極のリベラリスト」かもしれません。そんじょそこらの生半可な「サヨク」ではありません。完全に突き抜けています。
人間社会を「ヒト(ホモ・サピエンス)の集団」と捉えているからです。

ヒトという生物種として、どうすれば存続していけるか

そのためには、どうしても「多様性」が必要不可欠。人種や民族、思想、価値観など、とにかくバリエーションが豊富であるほうが、さまざまな危機に対応でき、種の生存確率が上がります。

世界中が同じワクチンを打つなど、まさに愚の骨頂・狂気の沙汰です。
「みんなが同じ抗体を持つ」など、進んで絶滅へ猪突猛進しているとしか思えません。
あまつさえ、これが巷間ささやかれるように「世界規模の人口削減」を狙っているのだとしたら、間違いなく確実に失敗します。「削減」どころか、計画した連中も含めて、あっけなく全人類が地上から消え去るでしょう。せっかく80億にまで増えた「多様性」をいっきに減らしたら、集団の生存確率を大幅に下げてしまうからです。
計画した連中は、生命の何たるかも知らない「愚者の集まり」だと断言できます。

「本当の幸福」を見分ける基準一つが

「他者の評価を必要とするか」

です。

「幸福」とは各人の心のありようであり、自己完結しているものですから、本来「他人にどう見えるか」は関係ありません。
もし「おいしいものを食べるのが幸せ」なら、食べ終わった時点ですでに満ち足りているはず。ことさら有名店を訪れたことをSNSで発信し、たくさんの「いいね」をもらう必要はありません。
なのに、そこまでやるのは、「おいしいものを食べること」自体が幸せなのではなく、「(おいしいものを食べる自分を)大勢の人にうらやましがられること」が「目的」になっているということです。

「高級ブランドの品を持つのが幸せ」という人は、たとえこの世から自分以外の人間が一人もいなくなっても、そうした品々に囲まれていることで「幸福」を感じるはずですが、ヴィトンのバッグを見せつけて自慢できる相手がいなくなったら、きっと興味を失うでしょう。

このように「他人の目にどう映るか」を評価基準にしている限り、決して本当の「幸福」にはたどり着けません。他人の評価など気まぐれにコロコロ変わるものですし、逆に相手の「劣等感」を焚きつける行為にすぎないからです。
「いいね」を押している人の大半は、同時に「妬み」を感じてもいます。だから、何かミスをやらかしたとたん、手のひらを返すように、いっせいに攻撃してきます。

今あなたが感じている幸福が「本物」かどうかは、この世から自分以外誰もいなくなっても、あるいは無人島に独りで漂着したとしても、その行為に「幸福」を感じられるかどうかで判別できるのです。

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