富裕層の究極のエゴイズム
いきなり漢字の読み問題
「銀杏」
「ぎんなん」以外に何と読みますか?
正解は「いちょう」。
晩秋になると黄色く色づき、落ち葉がお寺や神社、公園の地面を埋め尽くす、あのイチョウです。
茶碗蒸しの具の一つである黄色い「銀杏(ぎんなん)」の実をつける、あのイチョウです。
では、次の漢字は何と読むでしょう?
「鴨脚樹」
「公孫樹」
正解は……
どちらも「いちょう」です。まあびっくり!
同じ「いちょう」なのに、幾通りもの表記が存在する。
日本語を学ぶ外国人はもちろん、当の日本人をすら苦しめる日本語のやっかいな点です。
これは、長らく文字を持たなかった日本語の「悲しい性(さが)」で、先に物の呼称が存在し、後から借り物の漢字を当てたせいなのですが、その話はまたいずれ。
「鴨脚樹」がイチョウを指すのは、何となく理解できますね。あの特異な形状の葉っぱ、なるほど鴨の脚にそっくりです。
では、なぜ「公孫樹」がイチョウを指すのでしょうか。
イチョウは成長が遅く、苗木を植えてから食べられる銀杏の実をつけるまで時間がかかります。おじいちゃんが植樹してから、孫の代になってようやく実を食べられるようになることから、「公孫樹」という表記が使われるようになりました。
このお話の肝は、
昔の人は、自分だけでなく、数十年先の子や孫の世代のことまで考えていた
というところ。
言い換えれば、自分もまた生命の鎖をつなぐ輪の一つにすぎないことを、きちんと自覚していたということです。
決して「始まり」でも「終わり」でもなく、たすきをつなぐ一走者だと正しく理解していたのです。
翻って、現在の富裕層はどうでしょうか。
私が見る限り、世界のお金持ちや権力者たちは、そうした当たり前の事実をまるでわかっていない様子。
自分たちこそが生存競争の「アンカー(最終走者)」であると勘違いしているとしか思えません。
ちなみに、リレーの最終走者を「アンカー(船の錨)」と呼ぶのは、「綱引き」から来ています。
今でこそ、運動会の競技と思われている「綱引き」ですが、かつては立派なオリンピック・スポーツでした。隊列の一番最後に配置する体重の重い選手を、ロープの先端に結び付ける重し(錨)になぞらえて「アンカー」と呼び、転じてリレー競技の最後を務める走者を「アンカー」と呼ぶようになりました。
現代の富裕層・権力者たちは、極めて利己主義で、数十年先、数百年先のことなどまったく考えていません。
そもそも、未来を想像するだけの知性も教養もないのです。
「公孫樹」の漢字を考えた人より格段に劣っていますね。
もっとも、本人たちにも多少の自覚はあるらしく、表向きは「サステイナブル(持続可能)」などという薄っぺらい言葉を使いたがりますが。
そのくせ、我慢・忍耐・辛抱は全部他人に押し付け、自分たちは豪邸に住み、高級食材を食いまくり、プライベートジェットを乗り回し、資源を浪費しまくっています。
それもこれも、自分たちが「アンカー」であると思い込んでいるから。
世界は自分たちのために存在する。だから、自分たちのような「超重要人物」が去った後、世界なんて存続するわけがない。自分が死ぬときに世界も終わるのだ、という偏執的な誇大妄想に取りつかれているのです。
もし彼らが本当に「先見の明」を持っているなら、よけいなお世話の人口削減策など考える前に、まずみずから命を絶つことで「率先垂範」するでしょうよ。
なぜ健康維持や若返り、不老不死の研究に多額の投資を行うんでしょうかね?
私たちは、いい加減
金持ち=偉人
という安易・短絡的な誤解を捨てなければいけません。
東大生などにアンケートを取ると、儲かっている人ばかりを偶像視する傾向があり、情けなくなります。
裕福になるかどうかは、単純に「運」の問題であって、ほかには何もありません。
すべては「運」次第。
これは科学的に間違いのない真実です。
というわけで、我々は世界の富裕層・権力者どもに、
どれだけ資産があろうが、しょせんは1/80億人にすぎないことを思い知らせる必要があります。
ソロスであれゲイツであれ、連綿と続く「生命の鎖」の一つの輪でしかなく、その意味においては、名もなき密林の部族の一人の命と等価なのです。
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