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フジコ・ヘミング追悼 一句とエッセイ


ラ・カンパネラ千の窓が朝焼ける

2024年4月21日、フジコ・ヘミングが92歳の生涯を閉じた。

冥福をお祈りしたい。


私の母は、長く洋装店を営んでいたが、音楽好きだったので、店のバック・ミュージックは大体クラッシックのCDをかけていた。

ある日フジコ・ヘミングのCDをかけていると、入ってきた常連のお客様が、「素晴らしいですね!先生、これどういう方が演奏しているの?」と興味深げに母に尋ねた。母はCDジャケットを見せて、少し説明したが、そのお客様は、次に来た時、「あれ、買ったんですよ!」と嬉しそうに、言っていたという。

同じようなことが2、3回あって、しかももともとクラッシックファンではない人達が、忽ち彼女のピアノに魅了されてしまうのだそうだ。

フジコの人気の理由のひとつとして、ドラマや映画にもなった彼女の波乱に富んだ人生の軌跡に感動して、ということもあるかもしれないが、何の予備知識もない人々が、こうして瞬時に彼女の音の虜になってしまう、そういう事も多々ある。

クラッシックファンではない人々をも瞬時に魅了してしまうのは、フジコの音の分母が「心」だから、言って見ればどんなジャンルの音楽ファンであっても、共通語のように通じてしまうのだと思う。

そして音そのものが、喜びも悲しみも包括している豊かな音だから、様々な体験を重ねてきた大人たちを瞬時に虜にする力があるのではないだろうか。


フジコ・ヘミングは才能に恵まれ、若き日をドイツに留学していたが、レイナード・バーンスタインに見込まれながら、大事なデビュー・コンサートの直前に風邪をこじらせて左耳の聴力を失い、(右の耳は16歳の頃、中耳炎のために既に聞こえなくなっていたそうだ)、リサイタルは失敗に終わる。
失意のどん底をさまよい、それでも少しづつ回復してきた聴力を頼りに、ピアノ教師をしてドイツで生活。
生活はかなり苦しかったようだ。
母の死をきっかけに、母国日本に帰って来て、細々とピアノ教師や音楽活動をしていたが、NHKのドキュメンタリーに出演したことをきっかけに、爆発的に人気が出て、クラッシック業界では異例のCD売り上げを達成する。
この時60代後半である。

私は、この番組を見た覚えもあるのだが、思い違いでなければ、先にCDを聞いていて、後にNHKの再放送を見たのではなかったかなと思う。


私が彼女の音を初めて聞いた時、その音のすべてが、「こころ」というものを通過して来ていて、ひとつとして、自動的な、音が無い、
そう思った。

その音のひとつひとつの粒が、濡れていて、輝いていて、揺れていて、流れていて、

全てが心の深みから出てくる、そんな音だと思った。


どの音も、緩やかに人の内側から紡ぎ出されていて、どんな仕掛けも企ても存在しない、
自動的に、機械的に埋めてあるような音が無い、

だから、これらの音は、私達の心にも、どんな引っ掛かりも無しに、すとんと、素直に落ちてくる。

落下する小石のように、水中に沈んでゆき、1枚の木の葉のように、風を纏いながら、落ちて来る。



そして、その音は、決して優美なだけではない。
この上なく優しく繊細な音とともに、沢山の重たいものが入っている。

その音は、人生の辛苦を味わって来た者の、深い憂愁や、傷に満ちている。

その憂愁や失望や悲しみを、何一つ繕わずに、剥き出しにしたまま、すっくと立っている、そんな彼女自身がそのまま、音になって、迸り出ているのだと、思う。

私達が打たれるのは、嫌がおうにも音に滲み出る、そんな彼女の「在り様」なのではないだろうか。
傷を沢山持っている、でもこれがこのまま私、 そんな「在り様」。

そして、そんな苦難の連続の中でも、自分の行く道を、ついに見失うことはなかった。

その一念の、迫力。

そうしたものが、彼女の音に刻印されていて、私達の心を捉えて離さないのではないだろうか。



ミスタッチなども結構あるのだが、「機械じゃないんだから、間違えてもいいじゃない。」
言い得て妙である。

いつも煙草を離さない。 本当に粋な女性である。



フジコ・ヘミングの音に出会う時、私達は多かれ少なかれ、自分の奥深くに眠らせている負の感情に出会うのではないだろうか。
どんな人だって、人生何十年もやっていれば、沢山の傷や悲しみを、抱え持っている。
それを自分の中の、何処か深い場所に沈めたままに、なんとかかんとか前へ進んでいるのだけれど、

フジコ・ヘミングの音に出会う時、私達は、無意識下に沈殿させている、失望や悲しみを、静かに、緩やかに解放しているような気がする。



しかし、彼女のピアノの音によって、そういった自己の負の感情達と静かに邂逅した時に、

一体何故なのだろうか、私達の体内の何処かで、何かが癒されて、再生していくのだ。


彼女のピアノを聞いて涙が出るのは、単に悲しみや失意の時をを思い出すから、という事ではない。

そのことによって、何かが癒されて溶解し、何処かが新しい自分になれるから、なのではないだろうか。



彼女の音は、私達に語り掛ける。


「そのままで、いいのよ。」


そんな風に。






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noteにはそこから抜粋で時々投稿するつもりでしたが、最近は忙しくて中々できませんでした。折を見てまた投稿していきたいです。

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