街とその不確かな壁

村上春樹は、かつて好きな作家だった。
それが『神の子どもたちはみな踊る』や
(ノンフィクションだが)『アンダーグラウンド』のあとくらいから、
どうも好きではなくなっていて
ただ、好きな作家ではなくなった、といえる程度には読んでいる
という中途半端な位置づけ。

『騎士団長殺し』が久々に面白かったので
新刊が出るならまた読もうかと思っていた。
春樹作品で最も好きな『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の
”世界の終り”のほうの物語の元になったものを書き直した
ということにも興味をひかれて。

一読し、文章のうまさがまた一段かわった気がした。
シンプルでありながら、情景はきちんと浮かぶ。
長い物語だが、読むのに苦労する部分はほとんどない。
ということは、読んでいるときにははっきりしていた何かが
読んだあとに、さてなんだったのかと思うこともあるのだが。

全体のトーンは非常に内省的だ。
装丁もそれに見合っていて、黒地にタイトルが白、
中世の稀覯本のような版画と英語タイトルが小さく画面を
締めるように金で箔押しされている。
作品世界に見合ったシックな様子。
春樹世界によくある、主人公が異世界に行って危険な冒険をして
なんとか戻ってくる、という基本線は同じなのだが
その冒険というか、その大胆な転換や苦難の部分が少なく
全体としてドキドキするところがあまりない。

死者があたりまえのように生きる人と交流するのも春樹作品にはよくある
展開だが、今回はサヴァン症候群で、おそらくは発達障害の男の子が
でてくるのが印象的だ。
この作品の中でキーになる「夢読み」という印象的な仕事について
彼が出てくることでそれがどんな存在なのかということがはっきりする。
その世界では必要とされている大事な「仕事」なのだが
およそ生産的な仕事にも見えないし、何の役に立つのかも
『世界の終りと・・』ではわからなかったのだが
(ぼんやりと鎮魂のメタファーなのかと思っていたのだが)
その場所が図書館であることから、一般的な意味とは違うけれど
人の生きてきた生涯、魂のようなもののアーキビストみたいな仕事なのかな
という気がした。
(登場人物の一人、小易さんは彼の私設図書館のことを
「失われた心を受け入れる特別な場所」と語っているが
これも、むしろ向こう側=異世界での図書館の役割のように思われる)

少年が、現状の世界にはほとんど接点を持たず
生きる意味も見いだせないということには、
発達障害や特殊な能力のせいで、なかなかこの世界に適応できずにいる
人たち(と、彼らと同じくらい大変な思いをしている係累、家族)
を思ってなんだか切ない。
もっとも、私を含めて誰でも、凸凹のあるのが人間で
多かれ少なかれ、この世界と折り合うために苦労している訳なのだけれど
それでも何もかも捨てて、きっぱりと、もう戻れない道を
異世界こそが自分の住む世界と思い定めるほど、
多くの人は思いきれず、なにかしらの執着をこの世界に
もっているはずだから。

村上春樹がこの本の後書きに書いているように
作家が、生涯で真摯に書くことが出来る物語は数が限られる、という。
ここしばらく、一人の作家を集中して読むことを何人か繰り返してきた
自分にとっても、それは納得のいく言説だ。
多作と言われる作家でも、結局この人はこのことが書きたくて
何作も書いているのかな、と思うようなものを感じることが多かったから。

この本には、作家村上春樹が繰り返し書いてきたモチーフが
濃厚に描かれている。
若い頃に、あまり納得のいかない形で世に出すことになった小品を
作家としての技術が確立した今の筆致で、なおかつ時を待って書き直す経験は、そうあることではないのだろう。
それだけに、この作品は作家としての彼のありようを
示しているようにも思われる。
好きな小説か、と言われれば違うような気がするのだが
村上春樹の作品を読むときに期待していたなにかが色濃くある
という点で、もう少し年をとってからこの作品を再読してみようかな
と思っている。








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