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他人の苦しみへの責任

という本を読んでいました。

サファリング(苦しみ)
を私たちは理解出来るか、
が普通の学者の問いです。

こっちは在野の気楽さで、
こう問うてみたい。

人の苦しみを分かる必要があるのか?
という問いです。


例えば、人種差別は悲惨なものです。

それを私たちは同情することもできる。

しかし、差別して笑いものにする
今風コミュニティ(いや、いじってるだけだし)

の心地良さと、
人の苦しみに寄り添う生真面目さ。


どっちが気持ち良いのかという
問題です。

自分より弱い人間を叩くのは楽しいです。

この世界のあらゆる暴力は
基本的に自分より弱いもの、
弱いと思うものにしか向けられません。

良く言われますが、
無差別通り魔も、
プロレスラーみたいなガタイのいい男は
狙いません。

動物的な本能で前後不覚でも、
自分より弱そうな対象に向い、
男性が加害者である時、
多くが女子どもに向かいます。

それを是正する事は残念ながら不可能です。


大人が、自分にとっては他人事なので、
学校にいじめ問題があるのは仕方ないと言うように、

男より、女子どもが、下の立場であるのも
ある程度仕方ないのです。

 誤解のないように言えばこれは
僕の私見ではありません。
ただ色んな職を経験し、
様々なコミュニティを見るにつけ、

今あることを、それを変えたい人はいません。

それを変える人は、自分のエゴに応じて、
更に悪くするだけです。

人の集団は絶対に良くなりません。


でもそこから解きほぐす事が必要です。


僕はデジタル社会みたいなものに
根本的な懐疑があるのはそこです。


架空であるがゆえにゼロから始められる、
という嘘くささと、
そこに、統括する企業主体のある
自由の信用ならなさです。


物事は、ゼロから始まりませんし、
あらゆる生産からは
ゴミや、劣化が生じます。


何も変わらない世界が、
悪い側面でしかないように
(悪人だけは人類は切らした事がありません)


理想社会は、そこに住民が
本当に暮らし始めて瓦解します。

人と人が身近にいれば必ず争う。

つまり二人分のパンしかない場所で、
三人暮らさないといけないのが、
社会だったりします。

集団の中で、おいしい立場でいたい、
という本能は、
シンプルであるがゆえに、疑いにくく、
誠実に信じていないだけ、改心もありません。


人の苦しみへの共感、
人の痛みが分かる人へ、
という教育には虚しさがあります。


大人の態度により、
それがお題目だと、
子どもはすぐに察します。

人種差別はいかん、というイギリス紳士は、
黒人の召使いをとろいとドヤしつけます。


世界は無論そういうものですが、
だからと言ってそれだと、

根本的に面白くありません。

人が興奮するのは、多くの場合
困難に立ち向かう時です。


だから僕らは、ネルソン・マンデラの
物語に涙するのです。

だから、人の苦しみを
分かると損だ、という価値観とは、
うらはらに
人の苦しみを理解することが
困難なゆえに、
創造的だとも言えます。


少し遠回りが続きましたが、
次回日本の精神医療は
何を間違えてるのか?
で行きたいです。

あー暑い。

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