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サンマルクカフェで何度もうなずいた日曜日

土日のいずれかは、たいていカフェで本を読んでいる。
今日は久しぶりにサンマルクカフェに行ってみた。

「プレミアムチョコクロ パリッとカラメルプリン&プリンチョコ」とブレンドコーヒーを注文して、隅っこの席に座る。
期間限定販売のチョコクロ。
サクサクしていて、プリン風味のチョコレートもいい感じ。
おいしいなぁ。

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今日の1冊はこちら。

表紙も気に入っている。

数ヵ月前に読んでとても良い作品だと思ったので、今回はパラパラと流し読みをして、印象に残った箇所にふせんを貼ってみた。

プロ棋士である著者の先崎学氏は、私の日常とはかけ離れた厳しい勝負の世界に生きる人だけれど、2017年7月に発症したうつ病の苦しみ、不安、恐怖を描いた文章には共感しまくりで、読みながらしょっちゅう心の中でうなずいていた。

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著者が精神科病棟への1か月の入院を経て、しばらくしてから久しぶりに外出した際の描写。

人々が笑っていた。誰もが楽しそうだった。
思えばこの二ヵ月以上、私は人々の活気ある光景というものを見ていなかった。大勢の人間が普通に笑っている姿と無縁であった。その時私が感じたのは、ほとんど恐怖ともいえるものだった。活気溢れる人たちのエネルギーが、私の心を押し潰した。私は駅の片隅でおののき、うずくまりたくなるのを必死にこらえていた。

「うつ病九段 プロ棋士が将棋を失くした一年間」P69-70

「駅の片隅でおののき、うずくまりたくなるのを必死にこらえて」いた著者の姿に、うつ症状を改善しようと、ヨガ教室を目指して有楽町駅に降り立った日の自分の姿を重ね合わせる。
あの日のあの街の活気あふれる光景は、私にとって、まさに恐怖だった。

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だいぶ回復し、ある日、高尾山に出かけた著者が、周囲の幸せそうな家族連れやカップルを見て、自分が惨めに思えて少し泣いたという場面。

思えば涙が出たのはうつ病になってはじめてのことだった。うつ病の極悪期には泣くことはあっても涙は出ない。極悪期に泣くのは単にうつ病の症状で、心が悲痛に叫んでいるのだ。涙を流すというのは、感情がゆさぶられ、動いているということで、うつが良くなっているということなのだ。

同上、P71

うぅ・・・。まさにその通り!
うつ病の極悪期、私はずっと泣きたい、泣きたいと思っていた。
涙を流すことができれば心も体も浄化して、少し楽になるんじゃないかと思い、「泣け、泣け」と自分に言い聞かせたが、カラカラに乾いた私の目から、涙は一滴も出なかった。

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うつ特有の疲労感について。

うつの疲れは、健康な人間の疲れとは本質的に違う。一言でいうならうつの疲れは「辛い」のである。何が辛いんだといわれても困る。脳が勝手に辛いという信号を送っているのだ。そして意欲が減退するので、行動、発想などがどんどんしぼんでゆく。だから、うつで病んだ時に休むのは休養などというものではなく、脳の命令で体が自然と横にさせられているようなものなのだ。疲れも休みもうつの神様(最低の神様だ)によって、ただただあやつられている。

同上、P164

この上なく的確な説明である。
うつの神様は本当に「最低の神様」だ。なぜにそれほど人間を苦しめる・・・?

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さらに回復してからの著者の、睡眠に関する見解。

睡眠も夜中に目が覚めることこそ滅多になくなったものの、爽快な朝という経験はまったく味わえない。薬で無理矢理寝ている感じは残っていて、それだけでも健康体とはいえなかった。

同上、P151

私も「薬で無理矢理寝ている感じ」が、発症から4年経った現在も続いている。
朝すっきりと目が覚めることはなく、睡眠導入剤を使って強制的に眠ったことで生じた疲労感が、起床後しばらく続く。
著者と違うのは、私は今でも夜中にたいてい2回は目が覚めてしまうことである。
なんとかならないものか・・・。

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他にも紹介したい箇所がたくさんあるが、きりがないので、またの機会に。

苦しい描写ばかり引用したけれど、文章はとても読みやすく、淡々としていながらユーモアもあって、暗い気持ちにはならない。
うつ闘病記の中でも特に人気のある作品で、漫画化、ドラマ化もされている。

著者は現在は寛解し、元気にご活躍されているようで何よりである。

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なんでこの世にはうつ病というものが存在するんだろうねぇ・・・とつくづく思いながら、立ち上がって追加注文しに行った。
甘い甘いほうじ茶ラテを飲みながら(糖分摂りすぎ!)「まぁ、ボチボチ生きるべ」とゆっくり気持ちを整えて、日曜の午後をのんびり過ごし、家路についた。


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