当たり前の反対はありがとう

 私は”マスク”というものが本当に大嫌いです。小学校の給食当番を除いて、マスクを着用する機会は平均して年に2、3回あるかないかで、予防のためでさえ着用を頑なに拒んでいました。このようなマインドですから、小顔効果などと宣って真夏でもマスクを着けている人や、ファッション感覚で例の黒マスクのような類を使っている人の気持ちは本当に理解ができません。暑い中無理してマスクをしても口回りが蒸れて気持ち悪くなるだけじゃないですか?そもそもマスクってカッコいいですか?

 しかし、もしかしたら今年は春夏秋冬四六時中、マスクを肌身離さずに生活するのかもしれないです。最近春を無視したように突然気温が上昇しているので、既にマスク生活に嫌気が差しています。数ケ月先を考えると尚更恐ろしくて恐ろしくてたまりません。

 正直な所、マスクをするのは自分のためではないです。そもそもインフルエンザが流行している時期の満員電車の中でも装備なしでいた人間ですから、今更コロナウイルスで「自分のためにマスク着けないと!」とは思いません。しかし、行政や医療機関が感染拡大を抑えるために我々国民に対してマスク着用を呼び掛けている現在、マスクというものは外出許可証同然となっている気がします。自分は運転が得意だから大丈夫と言って、免許証を携帯しないで車に乗っている人って不愉快ですよね(そもそも犯罪ですが)。同様に、自分は感染しないから大丈夫と言って、マスクをしないで外に出ている人に嫌悪感をもってしまうのは、今の状況を考慮すると当然の反応です。故にほとんど義務のような感覚でマスクを大切に使っている毎日です。他人のために、と設定しないとマスク生活なんてやっていられません。

 そういう訳で、生活にマスクが必須となってしまい苦難に満ち満ちた現代、かつての当たり前に素面で外に出て、遊んだり美味しいものを食べたり旅行に出掛けることができた、桃源郷のような過去を想うと毎晩枕を濡らしてしまいます。そして”当たり前”という幸せに感謝せざるを得ません。

 と、ここまでで終わらせれば単なる教訓で終わりますが、そこで終わらせないのがニコチンという有害物質です。本題はここからで、タイトルにある「当たり前の反対はありがとう」という言葉は、高校1年生のときに東北でボランティアをした際の責任者にあたるA氏の発言なのですが、私はこのA氏というものが本当に嫌いです。マスクより嫌いです。詳細は長いので省きますが、端的に言うと傲慢な態度が気に食わなくて嫌いになりました。そのためにA氏の発言も、一見良い言葉ですし、言いたいことは理解できますが、嫌いです。

 確かに”当たり前”という状況が”ありがとう”であるというロジックは納得できるし、私が現在進行形でそれを実感していますが、”ありがとう”が”当たり前”って意味がわからねぇよ。A氏が嫌いだから頭が理解させまいとしているのですかね。初めて「当たあり」を聞いたときは、A氏に嫌悪感がなく16歳ということもあってか、ガンディーの名言のように愛し信奉していましたが、奴の本性に触れるにつれて、例の名言(笑)は薄汚く滑稽なものへと変貌してしまいました。内容も意味不明だと、後になって気付かされます。しかしこれを自分が尊敬するような人物が発言すると、再び素晴らしいもののように捉えてしまうのでしょう。結局、言葉というのは、何を言ったかではなく誰が言ったか、が重要だと気付かされます。

 以上、マスクを憎んでいたらもっと憎いものが脳裏に蘇ったよ、というお話でした。

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