優しさというの名の凶器、もとい狂気

みなさまこんにちは、トモヤです。

Webディレクターになり、気づいたら開発ディレクターにもなり新しく覚えることが多くて死にそうになったり、モモンガの奴隷になったり、釣りの大会に出たりしています。

周りに「優しい人」って一定数いるわけなんですよ
どういう環境にいても「優しい人」、「優しくない人」が分かれて共生していて人によってその相手が違ったりしていて

ベクトルが違うって言ったら少しニュアンスが異なる気もするのだけれど
ただ全ての存在から優しく捉えてられている人は極端に少ないはず
もしいるのであれば道端を歩いているアリに対しても落ちている植物に対しても優しい、もちろんそんな愛おしい存在を踏むなんて行為をしたくないから外を歩くことも車を運転することもできないだろう

そんな神のような崇拝されるべき存在は稀有でありいないと仮定するのがきっと良くても、誰に対しても優しいなんて人間という生き物はいないはず

というわけで、狭い環境下で誰かにとっては優しいと思われていたり誰からも優しくないと思われてしまっている人間の2種類が存在していると仮説を立てることに成功したところで

自分自身は一部の人間からは優しいと思われている寄りにいる人間ですと
そこでよく言われるのが以下の2つ
・疲れない?
・我慢してない?
これが割と多い上にうまいこと使われるだけになることもしばしば

よく言われることに対して答えるのであれば
「別に疲れないし、我慢もしていない
ただ、見切ったら静かに離れていきますけど?」
という解答である

優しさにも限界はあるのである
肯定した上で反対意見をさりげなく挟んでみたり、少しでも相手が良い方を向いてネガティブからポジティブにエネルギーを変換してくれることを祈っての行動もとってみる

もちろん長い目で見てそのアクションはする
短期的に考え即時の答えが来ることなんて稀で人間という生き物の意識はそうそう変化しない

基本は変化先に恐怖を抱き否定、嫌がり喚いたのちに変化せず
そんなことを中期的に見せられればもちろんこちらも嫌気が差すというか
優しいと言われがちな行動や言動は控えめになっていってしまう
それには理由があり、「これしてあげよう」や「喜ぶ顔が見たいな」という行動が全て裏目に出て相手を不快にさせているのでは?と考えてしまうから

こうなるともうお手上げで、この人にはなにもしない方がきっと幸せなことだろうし一緖にいることでよりストレスを与えるのでは?
という思考になり静かに離れていく準備を開始する

30歳を過ぎた今
今まで自らの選択で離れていった人たちとのやりとりや会話の情景を改めて思い浮かべた時にこんな感じにまとめることができた

それと同時に「優しさ」って概念は凶器であり、狂気でもあるのだろう
なんてことを文豪でもなんでもないどこにでもいる人間が思うのだから心理学者や概念をしっかり学び、しっかりと自分の言葉で発することができる人は既知の捉え方であり何を今更?と笑うのかもしれない

もしかして自分だけかも?
と考えることもできるが、精神衛生面で考えた時にこれを最期の最期までやりきる思考を自身に実装し不具合なく稼働させ続けるのは
もはや人間という生物ではなくプログラムだけなんじゃないか
そういう結論に帰着し、一旦文字列に落とし込んでいるいうわけである

異なる側面で見たら
優しさなんてただのエゴで押し付け
そう感じる方ももちろん存在するわけで、「優しい人ですね」って言われたら喜びと共に自分自身が傲慢である可能性も捨てずに
そんな回りくどい捻くれた思考を持って生きていきたい
そんな日曜日でした

kinky end

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