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救国の予言講演 1973~74年 2 国際勝共連合会長 久保木修已氏  忘恩背徳の民になるな


世界を知らない幸せ者

二年ほど前、私がしばらくワシントンに滞在していた時、世界の国々の大使と国際情勢について意見の交換をしたことがありました。当時、駐米韓国大使閣下のご自宅をうかがい極東問題について対談したとき、大使は「久保木さん、日本の方々は幸せな境遇を歩んでこられたから、われわれ韓国民族の特殊な心理状態はなかなかご理解いただけないことでしょうね」と言われ、そしてこんなことを話されました。
―――わが国は、四千三百年の長い歴史を歩んで来ましたが、実にみじめなことに、外国から攻められなかった時代は、ただの一度もありません。いつの時代をみても、遠くは中国大陸や北方から、近くは日本から四十年間の植民地支配を受けました。
こういうふうに、外国から攻められなかった時代は一度もなかったゆえに、われわれの国はいつも、国際関係の物事を深刻に見つめなければならない、という国民性を持つようになりました。侵略され、圧政を受ける中で開かれる国際会議のたびごとに、たとえば、ジュネーブだとか、あるいはワルシャワ等で、そして今日ではニューヨークで、というように、数々の国際会議が開かれてきましたけれど、そこの表舞台で私たちの国のことがとりたてて討議されたことはきわめてまれにしかないのであります。しかし、いつも五分とか十五分とかの会議の合間の休み時間に、廊下でお茶を飲みながら立話しの中で、〝この次はあの国をこうしようああしよう〟というふうに言われてきたのがわれわれの民族でありました。ゆえに、仮にいまどこかで開かれている国際会議の席上である国の代表が韓国について発言をした場合、その背景は一体どのようになっているのだろうかとか、あるいは、それに対して別の国の代表が反論した場合、その背景はどうなっているのかといったように考え、世界の人達が思いもつかないくらい極めて敏感に、そして国民的拡がりで重大な関心を持たざるを得ない体質になっているのです――

敏感に反応しない体質

私は、なぜかそのときに冷水を浴びせ掛けられたような気がいたしました。「待てよ!はたしてわれわれ日本民族はどうなっているのか」――と考えました。「確かに、その通りだ」わが国は今でこそアラブの石油問題などが出てきたため、国民は国際情勢に目をむけるようになってきたけれども、すくなくとも今日までの日本人は「今日はレジャー、あしたは・・・・・」と遊びごとに関してはみな真剣になっていたけれども、この日本が世界の中でどの様な立場に立っているのか、あるいはまた、世界の中にあってどう行かなければならないのか、といったようなことについては、まるで見向きもしなかった。世界のどこそこで国際会議が開かれていて、そこで何が討議されているのか、あるいは、日本という国が日本人の知らない間にそうした国際会議の休けいのお茶の時間に"この次は、日本をこうしよう、ああしよう”と言われたとしても、このことを一体誰が考えているのであろうか。どれほどの人々がそういった事態を真剣に考えているのであろうか――と。そう思うと私は深刻な心境にならざるを得なかったのであります。「これは、いかん」韓国のような境遇にある民族が世界中にたくさんあるのに、日本だけがそういう問題に対して敏感に反応せず、無感心な体質になっていたということは、「これは今に、とんでもないことになるぞ!」こう思わざるを得なかったのであります。

日本のことだけ考えるな  !

その翌日に、あの『忍者外交」で有名になったニクソン大統領の特別補佐官キッシンジャー氏(現在は国務長官)と会って、その韓国大使の話しをして「これは、日本人として考えておかねばならないと思いました」という話をしたところ、彼は薄笑いを浮かべながら「ミスター久保木、あなたは何を今ごろいっているのか、隣りの韓半島の問題ではないよ。これから日本人が知らない間にこれをやられる番だ、日本人自身の問題なのだ。それも分からずに何を寝ぼけたことを言っているのか」といわんばかりのことを言われました。
私がキッシンジャー氏のところに行った訳は、「今日のような状態になればなるほど、日米の協力関係がきわめて重要な立場に立っている。たんなる政府対政府という関係であってはいけない。本当に民間人同志が心を一つにして、今の自由諸国が団結し自由を守り抜くという共通の立場に立たなければならない」という考えからでした。しかし、彼らがいうには「これからの国際情勢の問題は、米国、中共、そしてソ連の三国で料理していくのだ。その中間に入って日本などがウロチョロしてくれるな!じっとしておれ!」ということらしい。私はいささか憤然とした気持ちでした。しかし、一方で、確かに静かに胸をなでおろして、歩んできた過去をふりかえってみると、そういわれてもいたしかたない体質が日本人の中にあるなと反省をしました。
ベトナム戦争をとってみても、日本はベトナムのために何ら貢献したことがないのにベトナム戦争が終わるやいなや、世界のどこの国よりも先を争ってベトナム戦争の特需景気と云って、出かけたのも日本の経済界でありました。また、〝シベリア開発〟といって、チュメニ油田やヤクートの天然ガスの話しがあれば、無節操に出かけており、さらに今日の『〝アラブ石油外交〟についても「石油が欲しい」と言って自分の国のことだけを問題とする日本に対して、アメリカは世界的な立場でこの石油問題を調整し、検討しなければならないと努力しているのに日本は身勝手に行動した。「そんなエゴイズムな日本は、もう知りませんぞ!これから、日本が他のことでどんなに困ってもアメリカは知りませんぞ!」とキッシンジャー氏を怒らせて帰してしまったのであります。

小手先外交に各国の批難

私は、日本に帰って来てすぐに、当時、外務大臣であった福田赴夫先生のところにお伺いして―――
「先生!私はアメリカで話しを聞きましたが、何かそれらしい情報を受けておりませんか」とたずねたのですが、先生は「さあ、今のところは何の情報も受けておりませんがね、あなたが気になるのでしたら私達もいろいろと検討してみましょうね」と答えておりました。
ところが、それからわずか一ヵ月後に、世界の誰もが考えなかった、想像だにしなかったことが起こったのです。すなわち、あのアメリカのニクソン大統領が中共に行って、毛沢東・周恩来と手を握り合うという大ニュースでした。私は、これを聞いて「ああ!あの時薄笑いを浮かべてキッシンジャー氏が云っていた、「お隣の韓国の問題ではないよ。今度日本がそういう番だ。日本などは、知らない間にこうしてしまえ!ああしてしまえ!ということになってしまうぞ』「これがそのことを意味したのか」と気がついたのですが、すでにもうおそかったのであります。とにかく、こうしてアメリカは日本の頭ごしに中共と手を結んでしまったので、田中さんもおおいにあわてて、組閣以来わずか二ヶ月もたたぬうちに中共に飛んで毛沢東・周恩来らと手を結んでしまったのであります。そして、その結果として、大平外務大臣が記者会見で一言、「今日から中華民国とは、国交を断絶する」と宣言して大恩を受けた蔣介石閣下のいる中華民国との日華条約を紙クズのように捨てさったのです。全く何と礼儀にはずれた、信義にもおとることであろう!こうした不信義によって日本は孤立の様相をどんどん進めてしまい、世界から、なかんずく東南アジアから批判ごうごうと浴び〝日本というのは解からない〟〝日本人は何を考えているのか〟という不信を招き、今日の破局へところがりおちてしまったのです。恐らく心ある方々はこうした今の日本を予想して心配されたと思います。

信義の軽視に断食抗議

私達も、「このままではよくない。このままでは日本は滅びてしまう」と思い何とかして救わねばならないと考え、行動に移すことにしました。しかし、残念ながら、我々には大きな権力も力もなく金もない、この身を削っての行動しか出来なかったのであります。しかし、当時全国の三千名の若者が、東京は数奇屋橋公園の百七十名を頂点として、全国の目抜き通りに座り込んで水だけを飲んで七日間の断食を決行したのです。
そして、道行く人達に「国民の皆さん、日本民族は信義を守り中華民国を捨てないで下さい。我々国民は、今、心静かに国家間における信義とは何か、個人における信義とは何かを静かに考えてみようではありませんか」と呼びかけ、たとえ五分でも十分でもよいから、ここに座って下さい。日本人の信義をもう一度思いおこしてみよう」と訴えた結果、沢山の人々に座っていただいたのでありました。

いやされぬ戦後の後遺症

でも私はそれだけではどうしても我慢ができなくて、当時外務大臣だった福田先生のところへ伺い「先生、考えてみれば、あなたがた大人の人達は、大東亜戦争、第二次世界大戦ということで、この日本をかくのような破局に追い込んでいったという責任の一端がおありになるのではありませんか。未だ、その後遺症というか、日本に対する警戒心がいろいろな意味で残っています。一旦、日本人が行動をすれば、軍国主義の復活であるとか、あるいはまた、経済侵略であるとかいろいろと言われつづけてきています。この後遺症は未だに癒されていません。たとえば日本に対する不信感というものは根強い。それなのに更に、中華民国の間題で日本はヘマなことをしたものです。
これからは、我々の孫や日本の若者達、これからの新しい日本民族は、ほかの民族と共に国境をとり除いた一つの場所で同じ仕事をしなければならなくなってきます。その時、すでに、この日本の若者達は、世界の人から後ろ指をさされながら〝この日本人とは仕事をしてもいいが、最後までは信用するな〟〝日本人は何を考えているかわからない。少しばかりの利益があれば、どんな約束事でもどんな信義でも平気で破り、口を拭っておれる民族なんだ〟と言われていくこの民族の未来は何と悲惨なことでしょう!我々若者はこれをたんに大人だけの責任にすることなく、自ら手足となって支えていきますから、今こそ頑張って欲しいものです」と訴えました。

福田先生に感激の涙

その話をじっと聴いていた福田先生は、「久保木さん、その問題はね、日本人の利益とかいう問題ではないよ。実にこれは人間として守らねばならない道だ。今、日本の国会議員が、われもわれもと中共へ足を向けているけれども、私としてはそれは出来ない。最後まで信義を守り抜く覚悟だ。どうか若者達にそのように伝えて欲しい」とおっしゃいました。
私は思わず福田先生の前で涙を流しました。「まだこの日本の中にはこういう立派な考えを持った方が生きていらっしゃるのだ!」と心の中にしっかり刻みながら、私はすぐにとって返して勝共の若者達の前で、「皆!決して失望するなよ。まだ、この日本には立派な大人の方々がいらっしゃる。全国の人々の中にはまだまだ信義を守り通す立派な方がいらっしゃる。それを固く信じて、我々はこの一週間の断食が二週間、三週間になろうが、あるいはこの場所で朽ち果てるようなことになろうと、日本人は信義を守り抜く民族であるという証しだけは立てておこう」ということで励まし合いながら七日間の断食をしたのでありました。それだけでは私は我慢ができないということで、中華民国に出かけて蔣総統にお目にかかりました。

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