そこに(笑)を付けるかどうか
「あの頃は、嫌な時代でした。」
という文章の最後に「(笑)」が付いているコラムを目にしました。
全体としては、以下のような内容でした。
もしこれを書いたのがわたしだったら、この文章のラストに(笑)は付けないな、と思ったのです。
***
(笑)を付けるのは
どんなときでしょう。
大ごとではないよ
真剣に捉えなくていいよ
冗談だよ
笑っていいよ
というような気持ちを表すとき。
文章に軽さを加えたいとき。
言葉に笑みを滲ませたいとき。
この書き手にとって「人と違うことで仲間から排除される/笑いものにされる」のは、子ども同士のじゃれ合いであり、今となっては笑える、過去のこと、ということなのでしょう。
でも、わたしはそうは思えません。
子ども同士の、一見微笑ましくさえ思えるようなやり取りにこそ、大人社会が投影されている気がするからです。
悔しければ自力でここまで上がってくれば?
本人の努力不足なんじゃない?
自業自得でしょ。
その人の置かれた環境、生まれながらに与えられたもの、与えられなかったものでそれぞれスタートラインは大きく異なるのに、平均以上の「みんなと同じもの」を揃えられなかったことで排除される悲しみ。
例えばそれは、お金だったり、性別だったり、国籍だったり、家柄だったり、宗教だったり、性的指向だったり。
社会の「普通」から外れて弾き出されたら
「自己責任」にされてしまう、という恐怖。
みんなと一緒でなくては
人並みでいなければ
という焦燥。
わたしはその息苦しさが、子どもの頃の一過性のもので、もう通り過ぎたこと、終わった話だとは思えないのです。
大ごとだし
真剣に捉えてほしいし
冗談じゃないし
笑ってほしくない。
軽く思わないでほしい。
少なくともわたしは、笑えない。
20年前は確かに酷い時代だった。
でも、あの頃と今は地続きで、繋がっている。
「普通」ではないものを排除する嫌な空気は、変わってなんかない。
自分が叩かれるのは嫌だから、表立って言わなくなっただけ。
隠れてコソコソ言うようになっただけ。
わたしは、そう思います。
だから全然、笑えないのです。
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