見出し画像

そこに(笑)を付けるかどうか

「あの頃は、嫌な時代でした。」
という文章の最後に「(笑)」が付いているコラムを目にしました。

全体としては、以下のような内容でした。

今は多様性が尊重される時代になり、小学生が背負うランドセルも色とりどりです。

女の子だから、男の子だからという締め付けも以前よりは無くなりつつあります。

一方、20年前はランドセルの色がみんなと違うだけで仲間から排除されることが珍しくありませんでした。
人と違うことで笑いものにされる
あの頃は、嫌な時代でした。

もしこれを書いたのがわたしだったら、この文章のラストに(笑)は付けないな、と思ったのです。

***

(笑)を付けるのは
どんなときでしょう。

大ごとではないよ
真剣に捉えなくていいよ
冗談だよ
笑っていいよ
というような気持ちを表すとき。

文章に軽さを加えたいとき。
言葉に笑みを滲ませたいとき。

この書き手にとって「人と違うことで仲間から排除される/笑いものにされる」のは、子ども同士のじゃれ合いであり、今となっては笑える、過去のこと、ということなのでしょう。

でも、わたしはそうは思えません。

子ども同士の、一見微笑ましくさえ思えるようなやり取りにこそ、大人社会が投影されている気がするからです。

悔しければ自力でここまで上がってくれば?
本人の努力不足なんじゃない?
自業自得でしょ。

その人の置かれた環境、生まれながらに与えられたもの、与えられなかったものでそれぞれスタートラインは大きく異なるのに、平均以上の「みんなと同じもの」を揃えられなかったことで排除される悲しみ。

例えばそれは、お金だったり、性別だったり、国籍だったり、家柄だったり、宗教だったり、性的指向だったり。

社会の「普通」から外れて弾き出されたら
「自己責任」にされてしまう、という恐怖。

みんなと一緒でなくては
人並みでいなければ
という焦燥。

わたしはその息苦しさが、子どもの頃の一過性のもので、もう通り過ぎたこと、終わった話だとは思えないのです。

大ごとだし
真剣に捉えてほしいし
冗談じゃないし
笑ってほしくない。

軽く思わないでほしい。
少なくともわたしは、笑えない。

20年前は確かに酷い時代だった。
でも、あの頃と今は地続きで、繋がっている。
「普通」ではないものを排除する嫌な空気は、変わってなんかない。
自分が叩かれるのは嫌だから、表立って言わなくなっただけ。
隠れてコソコソ言うようになっただけ。

わたしは、そう思います。
だから全然、笑えないのです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?