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一緒に暮らす=共に生きる、ではないよね

「サンは森で、わたしはタタラ場で暮らそう。
 共に生きよう。」

って、いいセリフだなと思います。
ジブリの「もののけ姫」にドップリと嵌ったのは、たしか中2の頃。
当時仲良しだった女の子と交換日記をしていて、アシタカやサンの似顔絵を描いたり物真似したりして、キャッキャウフフしていました。
懐かしい。

でも、あの頃はこう思っていました。
「好きなら一緒にいればいいのに。」

そう。
わたしは、何も分かっちゃいなかったのです。


週末の早朝散歩を続けています。

朝5時に起きて、ほぼ着の身着のままで外出して30分ほど当て所無く歩いて帰ってくる、というだけの散歩ですが、休日頭痛の予防に一役買っています。

今までに2回ほど、家に夫を置いて1人で散歩に出たのですが、3回目にして夫が「俺も行ってみようかな」と言ってきました。

いいよ、一緒に行こうといつも通りの時間に出立し、前回までは心の中で思うに留めていたことを夫に喋ったりして、やっぱり1人より2人のほうが楽しいわーとルンルン気分だったのです。

でも、どっち行こう、こっちの道にするか、とか、この看板見てみようか、別にいっかとか、そういう小さな「選択肢」が生じたとき、少しだけ引っ掛かりを覚えました。

いや、引っ掛かりとも言えないような…
ほんの、小指の先ほどの

「1人だったら相談することなく
 本当の意味で”当て所無く”歩けるのにな」

という、脳裏に一瞬よぎっただけの
意識しなければ通り過ぎてしまうような
ちょっとしたざらつき、というようなものを、
でもはっきりと感じたのです。

わたしは元来、孤独を愛しているのだなと
再認識しました。

わたしは実家暮らしが長く、特に過干渉の母親に支配される苦しみから解放される形で結婚したので、わたしにとって結婚≒自由でした。

ただ、もし結婚前に実家から出て一人暮らしをしていたら、しかもサイクルが確立され快適にシングルライフを謳歌していたら、果たして結婚に踏み切れただろうか、と思うのです。

もしかすると、サンとアシタカのように、自由に飛び回れる森と、安心して過ごせるタタラ場で分かれて暮らして、たまにヤックルに乗ってアシタカが会いに来る、そういう形で「共に生きる」ということになっていた可能性もあるな、と思います。

(そもそも夫とわたしが出会わない可能性は一旦度外視して)

何も一緒に暮らす=共に生きる、ということではありません。

夫もわたしもたぶん一人ずつで生きていけるし、わたしたち夫婦に子どもはいないので、どうしても一緒に暮らさなければいけない理由は特に、ないのです。

でも、今は一緒にいたいから、一緒にいます。
それはとてもシンプルなことだなと思うのです。

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