滅私してまで奉公なんかしない
滅私奉公、という言葉がきらいです。
みんなの為に
あなたの為に
と己を滅して奉公し、他者の為に尽くしまくると遅かれ早かれ、なんでわたしがこんな目に?なんでわたしばっかり?みんなズルい!
という思考に陥ると思うからです。
そんなの、健康的じゃない。
今アラフォーのわたしが高校生くらいのころ、自己中、という言葉が流行りました。
自分のことを優先して考えるのは自己中心的、自己中(ジコチュー)だと。
わたしも当時、自身の行動を省みて、あれは「自己中」だったかも、気を付けなきゃ、などと思っていました。
でも、今となってよくよく考えてみれば、自己中で何がいけないと言うのでしょう。
逆に言うと、自分が自分を大切にしてあげなくて、誰がしてくれるの?
もっと言うと、本当は大切にして欲しいと思っているのに自分が大切にしてあげないと、誰かからの「大切」を過剰に欲してしまうことになるのではないの?
欲、というのは油断ならないものです。
次から気を付けてね。
わたしは全然気になんないんだけど
誰に何言われるか分かんないしさ。
とか言っている人ほど実は無茶苦茶、気にしているものです。
いえいえ、わたしなんかの意見はどうでもいいんです。みなさんの決定にお任せします。
なんて笑っている人ほど「勝手に決められた」とウジウジ嘆いたりするものだし
わたしはあなたの為を思って言っているのよ。
誰の為でもない、あなたの為なのよ。
とか強調している人ほど後から「どうしてわたしの気持ちを分かってくれないの」と詰め寄ってきたりするものです。
全然平気ならそもそも注意なんかしなければいいし、心からどうでもよければ誰が決めても気にならないだろうし、本当にあなたの為ならわたしの気持ちなんて関係ないじゃない、と思います。
わたしが気になる
わたしが決めたい
わたしの為なの
と言うと「自己中」のレッテルを張られてしまうことを分かっていて、己を滅しようと頑張っているんですよね。
でも、奥底にある欲は消えない。
だから時間が経って煮詰まって、ドロドロドロドロしたタイミングでにゅるっと「わたしばっかり」が出てきてしまう。
だったら、最初から滅私なんてするもんじゃない。
辛いことは辛い
きついことはきつい
無理なことは無理と言う。
その上で、だったらどうしよう、誰が何をしよう、代わりにこれはわたしがやろう、これは外注しよう、その財源はここから出そう…という建設的な話し合いが出来る人が、わたしは好きです。
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