映画「ドライブマイカー」感想

・演じることの意味
映画内では、演じることの様々な意味が、複数の登場人物を通じて表現されている。

子どもを流産で亡くしたユナはソーニャを演じることを通じ、「動かなかった自分が動きだす感覚」を知って救われていく。

ラストの希望あふれるセリフも、演技を通じて希望を得た彼女が演じることで、より深みのあるものになったことだろう。

一方家福にとって演技は当初、音を亡くした痛みと、音に対する複雑な感情という「消化しきれない過去」を思い出させるもの、痛みの対象として描かれている。

ワタリとの過去をたどる旅を通じて本当の自分の思いに気づいた後の、ラストのソーニャとの演技は、彼の痛みに満ちた過去が「それでも生きていく」という彼の覚悟によって「消化しきれていない過去」から「昇華された過去」へと変わったことが表現されおり大変見ごたえがある。

家福とともに過去に向き合ったワタリの母にとって、演技はワタリ本人が言う通り、「地獄のような現実を生き延びるための手段」だったのかもしれない。

そしてその「生存手段としての演技」を劇中で行っている人物がもう一人いる。家福の妻の音である。
娘を亡くした痛みに耐え、それを昇華し生きるために、彼女はセックスの陶酔の中、自己の輪郭も朧気になるような半トランス状態の中で自分の痛みを物語として「産みなおし」、昇華しようとしたのである。ワタリの母と音には、「演技の記憶がない」「結果的に死んでいる」という共通点があり、それがどういう意味があるのかはまだはっきり言語化できないが、興味を惹かれる点である。

これらの人物はそれぞれの中にある痛みと演技が呼応することでより素晴らしいものを生み出せる、という描写がされているが、主要人物の内タカツキについては、序盤はなかなか魂の乗った演技ができていない。
そのことは車内の彼の「空っぽなので」ということにも現れている。「自分が全く経験していない類のことに関する演技は説得力がでない」というのが本作の演技に対する解釈であると思う。

ところが彼の演技が突如説得力を帯びたシーンがある。後半の舞台での練習で、憎い相手を殺せなかったシーンの時に発した「また失敗した!ちくしょう!」セリフだ。

この演技がこの時家福に評価されているが、この時彼は以前暴行した男性が病院で亡くなった事をニュースで知った後の状態である。初めて説得力を持った演技が殺人に関する事であること、また「殺せなかった」というセリフが「殺してしまった」という事への悔恨によって説得力を持つのは非常に皮肉が効いている。



・車と舞台

重要な会話(秘密の共有、本音を打ち明ける)がほとんど車でなされている。

演技する必要のない、本当の自分が出る場所
対して舞台は表層的には「演じる場所」であり、本当の自分が出る場所としての車と対置されているように見えるが、演技に感情が乗らない「空っぽ」のタカツキ、過去の痛みと向き合えず演技できなくなる家福の存在は、舞台が「本当の自分を知らないと演技ができない場所」として描かれていることを示しているので、必ずしも対比の関係というわけではなく、演じるためにはまず自分自身を知る必要がある、という関係性で示されているように思う。

・ワタリ(運転手)の「役目」
車の中では登場人物はみな演技をしていないが、ワタリのみが「運転手」という役目として「自分を差し出している」が、車外の彼女は正直で、飾らず、嘘やごまかし(=演技)がない人物として描かれている。この対比が美しい。

また彼女は、嘘に囲まれ育ったことから人の嘘(演技)を見破る力を備えており、また母の二重人格という「演技」や家福のラストの魂の乗った演技を最後まで曇りない目で見届ける「観客」である。しかし映画を見ている側の立場からすると、彼女もまた抑えめながら深みのある良い演技をする「役者」であるという入れ子構造がおもしろい。

・緑内障の意味
医者のセリフ「見えている方の目が像を補完するため自分では気づきにくい。発見が手遅れになり失明することも多い」から、「見えているものが正しいとは限らない」という事を意味しているように見える。
それは「自分から見えている妻の像に捕らわれ、結果的に妻を亡くしてしまう」という家福の運命を暗示しているのではないだろうか。
雪の中の「僕は正しく傷つくべきだった」という家福のセリフも、「(たとえどんなに傷つくとしても)正しい妻の像を知るべきだった」という意味かもしれない。
音の「話したいこと」が家福のいう「(悪い意味で)これまでの形ではなくなる」という意味だったのか、それとも例えば新たに命が宿ったというような「福音」だったのかはわからない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?