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【小説】遠ざけて遠くに眠る


 例えばちらと見えた寂れ色褪せたコーンのような、触れれば小さな亀裂からほろほろと崩れてゆくような、それでもいつかまた触れられるそのときを待ちわびているような、そんなかわききった油絵の割れのようなものを、指紋と指紋をこすり合わせるようにたっぷりと時間をかけてなでてほしい、とそんなことを思うけれど、私の心はそう長いあいだ放置されていたわけではないし、そのせいでかわききっているということも、だからないとも思う。そうかと思えば、どうして私の心はかわきひび割れそうにもろい状態にあると感じたのか自分自身に問わないといけないような気がして、さえない雲とそのおかげでまたさえない山々の連なりを、私の他に誰も乗っていないとみえる電車から、車窓に頼りなく映る私のその向こう側にとらえようと目を凝らしてみたけれど、仏頂面の私が私から目をそらしてくれないので、だから私は自分自身をもろいものだと決めつけているのだと一層の確信を強めることになり、さえないのは私だと思った。そう思ったから私は目を瞑ってみたけれど、とたんに私を再度見たくなり目を開けると、トンネルの中に入ったようで、さきまで平らだった私の顔にぞっとするほどの陰影が描き出されているのを認め、私はようやく眉間に入っていた力を抜くことができた。ふっとゆるめるとトンネルを抜け、さえない景色がまた私の向こう側に現れたけれどそれも束の間で、私の知っている広大な海が車窓に収まり、見えるから頼りなく感じるのだと思い意識的に目を細めてみると、目に映る全てのものの輪郭がぼやけ綺麗な絵になったと思い、それは水彩画の淡い繊細さに似ていると思った。さえない雲と山も依然としてあったけれど、海のおかげか絵の中に綺麗に収まっているように感じた。それは海があるからなのか、私が海を見たからなのか、どちらなのか考えようとしたけれど、代わりに私は細めていた目をそのまま閉じてみた。

「回送列車になりますので、お乗り換えお願いします」
 私は三度その声を遠くで耳にした気がしてようやく目を開けた。目を開けると車掌さんとみえる男性が隣の車両に移動してゆく後ろ姿が目に入り、足元に置いてあった鞄をつかみ腰を上げ、男性の背中に礼をしてから外へ出た。吹き抜ける冷えた海風に息を乗せてみたけれど、目に見えず私は時計を見遣った。
 13:17
 見渡すと到着予定時刻から一分と経たないうちに私を起こしに来てくださったさきの男性だけが構内に見え、私はつめたい空気を一度吸い込み、男性に歩み寄る格好で改札を目指した。
「冷えますでしょう」
 と男性が声をかけてくださったので私は、
「はい、起こしてくださらなかったら風邪をひいてしまっていたかもしれません」と言った。
 男性は「いえ」と言って微笑んだ顔を下に向けたので、私はまた一礼し改札を通り抜けた。
 駅から出て階段を下ってゆくと眼前に広がる海を認め、この眺めは見たことがない気がして目を閉じ探してみたけれど、どこにも見当たらず目を開けた。少しの間眺めていようかと思ったけれど、勢いよく空気の抜ける音がしたので諦めることにして思い出した。おばあちゃんの家に電車で来るのは初めてのことなんだと。
 バスに乗り込み外を眺めながら、九年ぶりに来たこの場所の変化を認めようとしたけれど、「自然」という言葉が思い浮かび、山は山で、海は海で、彼らからしたら九年なんて大した歳月ではないのだろうと思うと、そこらを走り回っていた十歳の私は姿を消し、私はでも九年を果てしのない長さだと感じながら窓に映る私を眺めた。この先九年経てば私はどうなっているだろうかと考えると嫌気がさし、海から目をそらして運転手さんの後頭部に視線を移した。運転手さんが見ている景色を私も見られている気がして目を閉じ描き出そうとしたけれど、また勢いよく空気を吐き出しバスが発車したので目を開けた。乗客は私一人だけで、時刻表通りに運行しているだけのバスではあるけれど、申し訳なくなりすぐさま降りたいと思い、そう思って勘違いもはなはだしいと感じ、また海を眺めた。目の前にあるのにとても遠くに感じた。

 玄関の前に着き、屋根と同じくらいの高さのはげた木を認め、この木は何の木だっただろうかと考え見上げてみたけれど、柿の木だったような気もすれば、みかんの木だったような気もして、私は春に生まれたから桜の木であればよいなと思い、知識のなさが露呈し恥ずかしくなったけれど、誰に聞かれるわけでもないからよいかと思って引き戸に手をかけた。大学の教室に取り付けられている戸を引く感覚で中指に力を入れたけれど、びくともしないで行く手をはばむようにそこにいるので、少しの力を加え再度引いてみたら、黒板を掻くよりも少し鈍い音がしたので私は手を離した。一度触れたものだからもう一度触れるのは造作もないことだけれど、戸の重さに歳月を感じ、お寺を眺めるように家を眺めた。茶の濃淡とその木のひび割れにさきに見たコーンが重なり、私はひびをなぞるように手を動かしたけれど、小さな木のささくれに私の指がはじかれた。痛みへの反射として私が手を離したのだろうけれど、私は木がはじいたように感じ、感傷的な自分を好きにはなれないと思った。そう思ったら私はなんでここに来たのだろうかとその理由を見つけようとしたけれど、ただの私の気まぐれに理由なんかありもせず、再び戸に手をかけた。それでも九年ぶりに会うからには何か理由がほしくなり、お土産でも持ってくればそれでごまかせたのにと思い後悔し、おばあちゃんはずっと私のおばあちゃんではあるけれど、離婚しすでに他界した息子の娘である孫の私のことをおばあちゃんはどう思っているのだろうかと考えると、私の指の頼りなさに、おばあちゃんの家ではあるけれど、私は重い戸を動かすだけの力を入れる気にはなれなかった。
「綾ちゃんけ?」
 おばあちゃんの声がしたので振り返ってみるとおばあちゃんが立っていた。九年前は同じ目線で話していたような気がしたけれど、腰が曲がり私が見下ろす格好になっていたので、私はおばあちゃんが提げる巾着のように持ち手を結んだビニール袋を認め、
「何が入ってるの?」
 と言いながらそれを受け取った。
「大きくなったねえ。それ、中入りなさい」
 おばあちゃんは袋を持っていた左手を腰に当て、逆の手で引き戸を開けた。それは私が大学で開くそれよりも簡単に、カーテンなどを開くときのように軽やかに滑っているように見えたので驚いた私は、
「おばあちゃん、重くなかった?」
 と、家の中に一歩踏み入れたおばあちゃんの背中に尋ねた。
「なーんにも。それ、バナナしか入っとらんわね」
 私の膝下近くの高さの上がり框に腰掛けたおばあちゃんはそう言って、
「それ、綾ちゃんもはよ入って、こたつつけるからあったまり」
 と続けたので、「うん」と言ってから、「おじゃまします」と言うものなのか迷い、戸のほうに向きなおり閉めながら口だけそう動かし、バナナのことを聞きたかったわけではなかったけれど確かに軽い戸を、少しの引っかかりを感じながらも二度開け閉めした。
 おばあちゃんに促されるままにこたつに足をつっこんだ私は、ただ戸を開くことだけに二の足を踏んでいた私をむずがゆく感じたけれど、九年ぶりに見る光景を目で見てから目を瞑り、おばあちゃんの家の匂いによって思い出された光景を描き出してみると寸分も違わず二つが重なった気がして、私は「故郷」という言葉の温かみを感じた。それは外の寒さのおかげかもしれないとも思ったけれど、こたつで体がほぐされるのにまかせ、隣の台所でおばあちゃんがポットから湯を落とすぼやけた音に耳を傾けた。
「綾ちゃん、お茶でよかったけ?」
 と、こたつのある居間にお盆を持ちながらやって来たおばあちゃんはやはり腰が曲がっているので、私はほとんど見上げることもせずおばあちゃんと目が合い、とたんに居間が小さくなったように感じた。
 おばあちゃんはお盆を床に置き白磁の急須の蓋を一度開け、中身を確認してから二つの赤土色の湯呑みを机に移した。急須から注がれるそれは薄い緑色をしているので緑茶なのだろうと思うと、舌の側面全てがちぢこまる感じがした。幼い頃は嫌いだったそれも今となっては自らたまに飲むものではあるはずなのだけれど、幼い頃の私が顔を出したのかと一度舌を歯にこすりつけてみたところ、おばあちゃんの持つ急須の取っ手が少し欠けているのが目に入った。以前は欠けていなかったはずだと思い、そう決めつけた私の、至極当然な時の流れを感じ取ろうという試みの不思議さから、この空間の静けさが際立つのを感じた。
 おばあちゃんが私の前に湯呑みを移動させるとき、正座をし、たたんでいた足を伸ばすようにして前屈みになったのを認めてようやく、なにをすべてやってもらっているんだと、お子さま気分の自分を恥じた。すると、家の中にも、おばあちゃんにも、腰が曲がったことを除けば大きな変化を認められない私に限っては大きく変化したはずだろうと思い、尋ねた。
「おばあちゃん、どうして私って分かったの?」
「そりゃ分かるよ、綾ちゃんは綾ちゃんやろうて」
 小学生のときの同級生を街中でちらと見たときに、背丈は大きく変わっていてもどこか面影があるから分かるのに似たようなもんだろうと得心した。すぐにそういうことを想像した私は、体だけでなく心もほぐされているのだと思った。
「綾ちゃん、元気しとったけ?」
 と聞いたので「うん」と頷くと、
「そうけそうけ、おばあちゃんはそれだけで安心やわね」
 と言うので私は「ありがとう」と言おうとし、恥ずかしいのか言葉にならずひきつるように口角が上がったけれど、「ありがとう」とでも口にしてみたら少しの間の抜けた感じがして、「ございます」と付け足し、「おばあちゃんは?」とすかさず尋ねた。
「おばあちゃんはこんなんや」
 と細い目をして笑うので、私は「そっか」と言ってお茶をすすった。おばあちゃんがいるこの空間にくつろいでいる私はでも、おばあちゃんと向き合い間を埋めることに独特の緊張感を抱いていることに気がついた。おばあちゃんをおばあちゃんとしてではなく一人の人として意識するときがあるのだろうと思った。
「薄くないけ?」
 と私を見つめて言うおばあちゃんの目が少し大きく開いていたので私は「うん、大丈夫」と言って、「美味しいよ」と言えばよかったと後悔した。お茶がまだ熱いからか喉を通る頃にようやく口に広がる苦味が、私の舌が待ち構えていたそれよりもすっきりとしていたのもあり、半分ほどを続けて流し込んだ。
「綾ちゃん、冬休みけ?」
「うん」
「そうけ。でもこんなとこ来てもやることないんやないけ?」
「まあ、おばあちゃんに会いたいと思って」
「まあ、そんなこと言うてくれるの。ありがとうねえ」
 と、口に手を当て微笑む姿をかわいらしく感じ、私はおばあちゃんをおばあちゃんだと思った。またそう思うくらいに私は歳を重ねたのだと思った。
「泊まってき」
 私が頷くとおばあちゃんは目を細めた。その表情はとても優しいものに見えた。

 目を開くと板張りの天井が目に入り、実際に見たことはないけれど、昔の木造の小学校の廊下のように見えた。体操着姿の子どもたちが端から端まで一直線に雑巾掛けをする姿が見え、それは友人と競争をし滑って肘を摩擦で火傷した小学生の頃の私とすり替わった。痛かっただろうと思うけれど思い出せず、あの頃のそういうけがをけがとして心配するのは周りの大人たちだけで、幼い私はそんなものより友人との関係が大切だったから痛みを思い出せないのかと思ったけれど、何か痛みを思い出そうとしても何も思い出せなかった。さきの木のささくれに触れたときの痛みももう思い出せなかった。痛みはだからそんなものかと思った。
 寝転んだ頭の下にやわらかいものがあるのでそれを枕だと思ったけれど、私が用意できるはずもないのでおばあちゃんが敷いてくれたのだと思うと、体を温めるこたつの温度もあってか起き上がるのは嫌だと思った。音もなく静かで、おばあちゃんはどこへ行ったのだろうと思ったけれど、孫が寝ているからといってずっと側にいるのも変だろうと、そんなことから孫の私は大きくなったなと感じた。
 型の古いテレビの上の壁掛け時計に目を遣ると、一時を少し回ったところをさしているので、そんなわけはないだろうと腕時計を見てみると、四時をさしていた。寝過ぎたかと思い、こたつから這い出て時計の電池を替えようと、掛けてあったそれを取り上げ裏返してみると錆びれた乾電池があったので、長らくこの時計は時計として機能していなかったんだと思い、少し寂しくなった。
「おばあちゃん?」
 と声を出してみたけれど返事どころか物音も何も聞こえないので、この家にいるのは私だけかと心細くなり家中を探しまわった。居間の隣の寝室、台所、仏壇が置いてある広間、それから二階の倉庫のような客間。どこにもおばあちゃんの姿は見えなかった。台所を除いてどこへ行っても畳の匂いがするので、童心に帰ったような気持ちになりそれは心細さを助長するような気がした。まだこの家に頻繁に来ていた頃は、お父さんもお母さんも、そしておばあちゃんも一緒になって過ごしていたので、小さな私はこの家を大きな家だと感じても寂しさにおびえることはなかった。居間へ行けば誰かがいるという安心感があった。おじいちゃんは私が生まれるより前に亡くなっているので、おばあちゃんはこの家で長いあいだ一人で暮らしているのかと思い、居間に誰もいないこの状況は当たり前のことなんだと薄暗い居間のこたつの周りを一周してみた。
 どうしようもなく私はこたつに入り、おばあちゃんに会いたいなと思った。会ったばかりなのにそう思うことは変だけれど、そもそもここに来たのもおばあちゃんに会うためなのだからそれも当然かと思い、机に置いてあったバナナを眺めた。一本ちぎり取られた跡があるので、おばあちゃんが食べたのだろうとおばあちゃんの食欲に安心した自分を不思議に思った。
 玄関のほうでビニールのこすれる音がしたので私は勢いよく立ち上がったけれど、おばあちゃんを驚かせてはいけないような気がして、歩いて玄関へと向かった。
「ああ、綾ちゃん。よく眠れたけ?」
 と、上がり框に腰掛けおばあちゃんがそう言ったので、
「うん。おばあちゃん、どこ行ってたの?」
 と、おばあちゃんの隣に体育座りをし、尋ねた。
「隣の上山さんのとこ行っとったんや。たまに会うてな、生きとうかあて二人で」
 するすると出てきたその言葉は、おばあちゃんの口に馴染んでいる気がしたので大げさな感じもせず、私はおばあちゃんの日常に触れた気がし、むしろ安心した。
「綾ちゃん、晩ご飯、何時に食べよか?」
「何時でもいいよ。おばあちゃんが食べるときで」
「いつもやったらもう食べるんやけど、それやったら早いやんねえ」
 と言って、
「おばあちゃんは早いんやわ」
 と、両手で顔を覆い照れたように笑うので、
「私も五時に食べるときあるよ」と言った。
「そうけ」
 と、少し驚いた声を出してから、
「これ、上山さんが作ったって分けてくれたんやわ」
 と、ビニール袋を解き、青い花柄の器に入れられたかぶのお漬物とみえるものを取り出し、
「せやったら用意しよかいね」
 と腰を上げ、おばあちゃんがそのまま台所へ向かったので私も後ろについて台所へ行った。

「寒くないけ?」
 と、つけてくれた石油ストーブの音が懐かしく、その音を聞くだけで部屋全体が暖かいような気がした私は、こたつにつっこんでいた足を出し正座したけれど、出すと寒いもので、正座のまま少し前進しこたつに入った。
「いただきます」と言うとおばあちゃんも、
「いただきます」
 と言ったので、二人でご飯を食べるのは初めてのことかもしれないと、正面に座るおばあちゃんを見つめてしまった。
「食べないね」
 と微笑んだので、私はまた「いただきます」と早口に言ってお漬物にお箸を伸ばした。それはやはりかぶだった。ぽりぽりという音に、私はまたそれを口に入れた。
「美味しいけ?」
「うん、美味しい」
「そうけ、また上山さんに言うとくわね」
 と、おばあちゃんも口に入れた。
 他には作り置きしてあったという肉じゃが、ひじき、かぼちゃの煮物、そしてフライパンで焼いたばかりのぶり。上山さんにもらったという柚子が添えてあり、一人暮らしではこういうことをしないなと、おてしょに乗せたじゃがいもをお箸で半分に切るおばあちゃんを見つめた。
「綾ちゃんと一緒に食べると美味しいわあ」
 と言われたので、私は「ありがとう」と言った。
 私はかぼちゃを口に含みながら、おばあちゃんの言った言葉を反芻し、頭のどこかにそういう言葉を探してみたけれど、文字として見たことがある気がしただけで音としては初めてかもしれないとまた響かせてみると、なんだか音だけでは味気ないと思い、目の前のおばあちゃんを見るともごもご口を動かしているので、このおばあちゃんが言ってくれたんだと体のほてりを感じ、こたつから太ももを出した。
「暑いけ?」
 と、口に何かを含んだままおばあちゃんが言ったので、私は「あっ、ううん」と言ってまたかぶにお箸を伸ばした。小さい頃はお漬物は大人の食べ物だと思っていたなと思い、ここで何を食べていただろうと食卓を囲む家族の風景を描き出してみると、正面のおばあちゃん、右手にいるお父さん、そして左手にいるお母さん、みんなと目が合い、机の上に並んでいたものは何も思い出せなかった。私はだから、
「おばあちゃんの料理、美味しいね」と言った。
「そうけ?嬉しいわあ」
 と、おばあちゃんは細い目をし、笑った。

 薄いピンク色をしたタイルを見つめながら、おばあちゃんと一緒に湯船に浸かっていたことを思い出し、一度立ち上がってからまた勢いよくしゃがんでみたけれど、張られたお湯が波打つだけで溢れることはなかった。
「これ、綾ちゃん」
 そう言いながらでも笑ってくれていたおばあちゃんの笑い声が反響するのを面白がりはしゃいでいたなと、私を揺らしていた波が落ち着くのを眺めた。
 湯船から出て脱衣所に行けば、せっかく温まった私の足がまたすっかり冷気を吸い上げてしまうのかと思うと、小さい頃のように拭くのもそこそこに居間に行ってしまいたくなった。あの頃は体を冷やせば風邪を引いていたかもしれないけれど、寒くても動き回れば体は温まったし、温めてもらうために誰かの懐に飛び込むということもできた。今となっては、冬場は特にずっと体は冷えているので風邪も引かないだろうと思う。冷え性についてはもう諦めているし、動き回るだけの体力やら気力もない。そうかといって誰かの懐に飛び込むなんて無邪気なこともできない。自分から動かなければ何かに触れることもないけれど、お風呂のように無条件に温めてくれることもない。ないことばかりしか思い浮かばず、湯船のお湯がぬるい気がしてきたのでもう出ることにした。
「おばあちゃん、お先。ありがとう」
「あったまったけ?」
「うん」
 つま先立ちで跳ねるようにして一直線にこたつに入ったけれど、それでもやはり足先は冷たかったので私は、膝に顎を乗せ足先を揉みほぐした。
「寒いんけ?」
 と、テレビに向けていた視線を私に向けたので、
「ううん、冷え性なの」と言うと、
「そうけ。それはえらいこっちゃ。生姜湯ゆうんがあるからいれたげよ」
 と言って机に手を置いた。
「いいよ、おばあちゃん。台所寒いよ」
「おばあちゃんもう飲まんし、綾ちゃんが飲んでくれたらええ」
 そうして机に置いてあった手に体重を乗せるようにして腰を上げたので、私は足の指を両手で一度強く握ってからおばあちゃんについて台所へ向かい、
「綾ちゃんはこたつ入っとったらいいのに」
 と言うおばあちゃんの小さな後ろ姿に「いいの」と言った。

 生姜湯をいれてくれたおばあちゃんは、
「お風呂入ってくるわね」
 と言ってお盆を私に渡し、そのままお風呂へ行った。
 私はニュースを読み上げるアナウンサーさんとにらめっこしながら生姜湯に口をつけた。まだ熱いそれは口の中では味を感じさせなかったけれど、食道を通り胃に届くのには適温で、それだけでも美味しいと思った。
 再び居間に一人になった私はこんなにも一人でいることが苦手だったかと不思議に思い、一人暮らしをしているアパートでは感じない寂しさから生姜湯にまた口をつけ、アパートにおばあちゃんがいることを目を閉じ想像してみたけれど、心落ち着かず目を開けた。
 私が期待する通りに事は運ばれないことは分かっているけれど、私の中で一切の疑念もなしに当たり前のことと記憶されていることは、知らずのうちに私の心のよりどころであり平静をもたらすものであるのだと思った。そう思うと、おばあちゃんがまだここにいることは私の中では当たり前のことだったけれど、いないということも当然考えられることだったと気がついた。孫である私にとってのおばあちゃんは生まれたときから変わらずおばあちゃんであり、いなくならないものだと勝手に思っていた私はようやく、おばあちゃんの腰の曲がりという目に見える変化を通して死というものを感じ取っていたのだと、一人の人としておばあちゃんを見てしまうわけを知った気がした。
 自らの死を意識すればするだけ、人の死に対して敏感にもなれば、同時に無遠慮にもなるのだと思う。
 そんなことを思いながら、流れるテレビの映像は私の頭の中を駆け巡るそれよりも面白味はなく、ただぼんやりと断続的に生姜湯をすすり続けたけれど、冷める前にそれはなくなり、温かい飲み物はだから飲み急いでしまうのだと名残惜しく、少し遠くに湯呑みを置いた。
 机の端のニスの剥げた部分をなぞってみると、よく触れたことのある感触だと十指全てでなぞりたくなった。左人差し指がこの感触を覚えている気がして何度も往復させていると少し熱を感じ、取れるはずはないのだけれど指紋を見遣った。何年かぶりにじっと眺めてみると綺麗な渦を巻いていて、あなたが一番好きな体の部位はどこですか、と聞かれたら、指紋、と答えようかなどと、奇をてらってうけもしない問答を思いつき、そのせいでまたより真剣に指紋を眺めた。そこから指紋のみならず手相なんかも眺めてみると、左手小指側が鉛筆で真黒になっていた頃が思い出され、この机で冬休みの宿題をしていたのだと、小さい頃の私が愛おしく思えた。やりもしない冬休みの宿題を机に広げ、視線だけはそこに注ぎながらも意識はそこには向いておらず、勉強をしていますという姿勢を見せつけてもどうしようもないのにも関わらずそうしていた私はやはり一人ではなかった。あの頃も今も変わらず私はおばあちゃんの孫であり、冬休みを過ごす学生としての私の年齢を覚えてくれているおばあちゃんはやはりずっとおばあちゃんなのだと思った。
「あったまったけ?」
 と、おばあちゃんは九年前も着ていたような気のする、色落ちしてピンク色が限りなく白色に近づいた花びらがあしらわれたパジャマに身を包んで居間に戻ってきた。
「うん、美味しいね、これ」
「そうけ、そんなら持って帰りね」
「いいの?」
「綾ちゃんが飲んだほうがええ。おばあちゃんはもう長くないやろうから」
「病気とか?」
「ありがたいことに病気はしとらんけどもう歳や」
 そう口にするおばあちゃんの表情は穏やかに見えた。
 歳を重ねた先に死があるのだとすればそれは健康的なことだと思うし、歳を重ねるにつれ死というものを意識しそれをどう扱うかはその人にゆだねられるものだと思う。寿命があるかぎりそれはそうだと思う。
「おばあちゃんも長く生きたしね、よう生きたと思う。満足や」
「そっか」
「おじいさんもお父さんも交通事故ではように亡くなったやろう。それはもう寂しかったし、なーんもなくなったように感じたんや。でも寂しさでなくなってしもたその部分も、今となってはなんでも受け入れられる余白になってしもたんや。悲しくもないしな、そうゆうもんやろうて」
「うん」
「綾ちゃんにもう一度会えてよかった。それは嬉しいことやった」
「うん」
「ありがとうって言ってるんよ。ありがとうって」
 そう言うおばあちゃんの目を細めた表情はやはり優しいものに見えた。
「綾ちゃん、急に来るから少しびっくりしたけどな、なんかあったんかなって思ったけどな、おばあちゃんには理由なんてどうでもよくてな、会いに来てくれたことが嬉しかったんや。綾ちゃん、こたつで気持ち良さそうに寝とったやろう。それで安心したんや」
「そんなに気持ち良さそうだった?」
 寝姿を見られるのは初めてではない、というよりは寝ている私が気づいてないだけで何度も見られているのだろうけれど、改めてそのことに触れられるとなんだか恥ずかしい思いがした。家のこたつで寝てしまい目を覚ましたとき、お母さんと目が合い、垂れていないよだれを拭うふりをして笑ってみることがあるけれど、それは照れも恥じらいもなく昼寝の後の挨拶のようなもので、お母さんは本を読んでいようともテレビを観ていようとも何をしていようとも、片頬にえくぼを作るだけでそれ以上は何もない。そんなだから同じ家で暮らしているかいないかでは大きな差があるのだろうと思った。思った、というよりは思ってみた。
「おばあちゃんは毎日よく眠れてる?」
「そうやねえ、綾ちゃんよりかは寝るのも早いし起きるのも早いけど、よう寝とるわねえ」
 おばあちゃんはそう言って口元を手で覆った。
「そっか、それならいいね」
 友人のおばあちゃんやおじいちゃんが亡くなったということはたまに耳にすることがあるけれど、そのことを話してくれる友人の表情や声色に悲嘆の色はなくむしろ清々しいような気さえする。それは安らかな永い眠りに就けたことに対する安堵が含まれているのかなと思う。
 不意に視界がぼやけた。
「綾ちゃん、どうしたんね?」
 そう言っておばあちゃんはティッシュを一枚手渡してくれた。
「たまにあるの」
 私は受け取ったそれで目元を抑えた。
「そうけ」
 と言っておばあちゃんは腰を上げ、私の背後に回りもたれかかるようにして背中をくっつけた。
「寒いよ?」と言うと、
「たいした寒さやないわね」
 と、やわらかい声が返ってきたので私は大きな音を立てて鼻をかんだ。
「お父さんによう似とうねえ」
 笑い声をあげた。
「おばあちゃん?」
「ん?」
「私の寝顔、気持ち良さそうだった?」
「ちっちゃいときと変わらん、いい寝顔やったわね」
「そっか。ありがとう」
「布団敷くから、綾ちゃん、おばあちゃんの隣で寝ないね」
「うん」と言って私はもう一度鼻をかんだ。
 おばあちゃんはふすまを開け下段からいつも使っているとみえる布団一式を取り出し、上段にある布団に手をかけたので私も立ち上がり一緒に布団を下ろした。この家を充たす匂いが凝縮され鼻に届いた気がして私はそれを深く吸い込んだ。
「綾ちゃん、おやすみ」
 と言っておばあちゃんは電気を消した。電気を消すと外の灯りも届かず、天井に手を伸ばしてみたけれど影も動かなかった。
 暗い夜の訪れが人々の眠りを誘うのであれば私はどうして寝られないのだろうかといつも思う。日中、何か考え事をするときなどは目を瞑り考えるけれど、そのときは赤黒さかまたは煌めく白さがちかちかとして煩わしいときがある。ベッドに潜り目を瞑れば真暗で、煩わしい光に気が散ることもないので、思い描けば夜の車窓に映る頼りない姿に似た景色がぼんやりと浮かび上がってくる。夢で見るそれと似ていて、望遠鏡を覗くのに似た視界の狭さで、しかも夜でないことが明白であるときも薄暗い。その薄暗さの中に私は意識的に避けてしまうことを敢えて思い描く。それを囚われていると言うのかもしれないなと思う。
 夜が来るともう明日が来なければよいのになと思う私は、生死に対する感覚がおかしいのだろうかと思うこともあるけれど、私だけがそう思うわけではないだろうと思うと、皆が皆同じ考えを持っていないことは明白であるので、私の生きる意味はなんなのだろうと、何か特別な理由がほしくなる。特別なもの、個性にすがりつかないと不安になるけれど、それがない。暗闇の中で限りなく自由であるのにも関わらず、気づけば視界はすぼみ飲み込まれ、巨大な波の中で溺れそうになる。目を開けることさえできず、私は体を丸めて朝を待つ。
 明日の訪れを朝が来ると言うのであれば、眠ることでわかりやすく分断できない私は、間延びした日が過ぎてゆくのに合わせて過ごしているだけなのではないかと全てが面倒に感じる。身を投じれば永い眠りが訪れるのだろうかと思うけれど、いざ試みようとすると心臓のあるあたりが握り締められるように苦しくなる。それは夜、波に溺れそうになるのに似ていて、それを恐怖と言うのだろうと思う。
 交通事故で亡くなったお父さんのことを避けてしまうのは私が未熟だからなのだろうと思う。
 来る日も来る日も、死んでしまえ、死んでいいや、明日死ぬんだ。そういうことを思いながら布団に潜り、日が昇るのを待つけれど、決してそうならないということは分かっている。私は怖い。昨日までの自分を殺し、明日から違う自分になろうと決心することももう意味がないということも分かっている。誰も生きていない世界があるのならそこで生きたい、と、ばからしく思う。
 息苦しい布団の中でこのまま眠れば息絶えるのだろうかと必死に呼吸をしながら、できる限りいろいろなことを思うことによって何もない自分を偽ろうとしてきたけれど、結局は何もないのだからそれはインクの切れたペンで殴り書きをしているだけに過ぎず、消そうと思ってもだから何も消すものさえなかった。
 布団から這い出ておばあちゃんの寝息に耳を澄ませた。規則正しいリズムでそれは聞こえた。私は布団から出て手探りで暗闇の中をこたつまで歩き、バナナをちぎり取り食べた。冷たいそれは一口で噛むのを嫌に思わせるものだったけれど、口を閉じ音も立てずに食べきった。それからもう一つちぎり取り、台所へ向かいレンジの横に立ててあるペンを手にした。
「おばあちゃん、ありがとう。
     またすぐ会おうね。  綾」
 バナナにそう書き冷凍庫を開け、奥のほうへそれを静かに置いた。また居間に戻り剥かれた皮に、
「090 〇〇〇〇 〇〇〇〇   綾」
 と書き、受話器の横に置いた。
 もう一度耳を澄ませおばあちゃんの寝息を聞いてから私は玄関の戸をそっと滑らせ、遠くにある海を遠くに感じながら、つめたい夜で深呼吸をした。白い息が風に流された。

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