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詩に紛れて短編小説

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記事一覧

月明かり

 冷たいものは目を覆い、熱いものは視界を飲み込んだ。  真路は見慣れぬ土地をそれでも足元を見ながら歩いた。  歩を進めれば大きな足跡が一つ二つ、三つ四つ。人影の見えない早朝に真路は一人、平坦な道をでも未踏の雪山を登る者のように一歩一歩確実に踏み締めた。 「お兄さん、こんな早朝から散歩とは健康的でよろしいですね」  白髪豊かな老婆は言った。 「小雨とはいえ濡れては風邪も引いてしまうでしょう。私が温かいものでも拵えますからウチにおいでなさい」  そう言って老婆は片手に持っていた真

【小説】遠ざけて遠くに眠る

 例えばちらと見えた寂れ色褪せたコーンのような、触れれば小さな亀裂からほろほろと崩れてゆくような、それでもいつかまた触れられるそのときを待ちわびているような、そんなかわききった油絵の割れのようなものを、指紋と指紋をこすり合わせるようにたっぷりと時間をかけてなでてほしい、とそんなことを思うけれど、私の心はそう長いあいだ放置されていたわけではないし、そのせいでかわききっているということも、だからないとも思う。そうかと思えば、どうして私の心はかわきひび割れそうにもろい状態にあると感

【小説】子に還る迷子

☆ 「暗闇に迷い込む私たちはそこに『親』を探し求めるものね」  ☆ 「静、コーヒーでよい?」 「美味しいのをお願いね」 「そのつもりだよ」  優は慣れた手つきで弧を描いていく。 「優はコーヒーを淹れるとき何か考えている?」 「何も考えていないよ。今日も美味しくできるかなぁ、くらい」 「そっか。早く落ちろよ、とか思わないんだ?」  カップを二つ持って優は席に着いた。 「思わないね。思うくらいならドリップなんてしないよ」 「そっか。それもそうね」 「それよりもこの香りを嗅ぐ

裸で産み落とされた

裸で産み落とされた わたしの役目は 服を着た人々の手を温めること 心を温めたのは 街ですれ違う多くの人々 身体に熱い血が流れている 暖かいと言う人がいてくれる ありがとう ありがとう ありがとう 役目のないわたし さようなら 裸で産み落とされた わたしの願いは 服を着た人々の心を温めること 手を温めたのは 街で立ち止まる多くの人々 身体に熱い血が流れている 温かいと言う人がいてくれる ありがとう ありがとう ありがとう 願いのないわたし、

まるい結晶の上で

乾いた風が 肌の潤いを奪ってゆく そんな風は きっとどこでも吹いている けれど 頭を使って編み出された 肌の潤いを保つ術を わたしたちは持っている 長い年月に渡り蓄積された 貴重な知恵の結晶 乾いた風は きっと吹き止まないだろう 乾いた風が きっと今日もどこかで 誰かの 潤いを奪っているのだろう 目が合った誰かに 潤いは保たれるものだと 共有することこそが わたしたちの結晶

午前5時

今朝は 雲が速く流れているから あなたの声を聞きたくなった 今朝は 猫じゃらしが朝露に濡れているから あなたの声を聞きたくなった 今朝は 電車が混んでいないから あなたの声を聞きたくなった あなたが寝ている秋の早朝 わたしのしずかな午前5時

あなたでない夜はもう、ひとり

あなたと呼ばれるあなたにも あなた以外の名前があって 今はあなたと呼ばれるだけでも あなたとは呼ばれない日々もあった 兄に悪さをし 嫌いなものは残し その度にあなたは名前を呼ばれた 恋人にキスをし 不機嫌に寝坊をし その度にあなたは名前を呼ばれた 歳を重ねるにつれ あなたはあなたと呼ばれ 名前を呼ばれることが少なくなった 耳鳴りのする深夜 波打つ肋骨をさすりながら きつく抱かれた日々に浸る あなたではない日々を 恋しく思うことの許された暗闇で あなたと呼ばれる明日の

堆忘

狭い路地裏で 迷い込んだような落ち葉を見る 一枚、二枚、三枚、四枚 さくさくっと 軽快に踏みつけていく 最後の一枚を踏みつけたとき あなたは振り返る そうして初めてその多さに気がつく 肌身離さず持ち歩いていたはずのそれらの はじめの一枚をかき集めて ポッケに入れた 表の通りも、少し、明るい

かんじょうせん

あなたはわたしが綺麗だと言った草花の名を教えてくれました。わたしはきっとその名を忘れないでしょう。あなたはわたしの人生における大切な停車駅をまた一つ作ってしまいました。次そこにまわってくるのは30年と先かもしれません。わたしは今日もその感情線をまわります。

小心者

昨日のわたしを信じて 日々を迎えた 今日のわたしを信じて 日々を過ごした 明日のわたしを信じて 日々を流した 日々は変わらず日々のまま 昨日のわたしを信じて さよならをして 今日のわたしを信じて おはようをして 明日のわたしを信じて おやすみをする 日々に馴染みすぎた わたし

あなたは夜の水棲生物

深い青さのその下から あなたがわたしを仰ぎ見るから わたしは飛沫を立てないように するりと手を差し出すの 揺らいで見えたあなたの顔が わたしの知らない顔に見えたから わたしは視線がぶれないように そうっと水面に溶け込むの それでも少しは知っているんでしょう 知ったような口ぶりで 得意げになるあなたの顔を それでも少しは知っているんでしょう 知ったような口ぶりで 張りがなくなるあなたの顔を わたしはあなたの頬に触れたい たったそれだけ あなたは夜の水棲生物

【詩】黙するな口を開け

言葉を発することで背負う十字架の重さをあなたは知っている。その覚悟の格好良いのも知っている。それが生きてゆくことだということも知っている。 口からついに溢れ出しそうな膨大な言葉の存在をあなたは知っている。それらをせき止める分別の格好良いのも知っている。それが生きてゆくことだもいうことも知っている。 外に出さなければ永久に葬り去られる可能性があることを、あなたは、知った気になっている。 黙するな口を開け あなたは何度でも自分に言い聞かせている。 黙するな口を開け

生と死

腹を空かして生を歌おう 腹を満たして死を語ろう そのうち自然と眠るから そのうち自然と眠るから 瞳を閉じて生に触れよう 瞳を開いて死を手放そう そのうち自然と眠るから そのうち自然と眠るから あなたもそしてわたしも そのうち自然と眠るから

揺らぎ

使命感を胸に宿せ 我が言葉で人生を切り拓く その使命に責任を持て 前へ前へ その推進力で 努力無き者に先はない 苦しくても前へ 停滞はない 進め進め 力強く 使命感を曝け出せ 我が言葉を心に響かせる その使命を自由に飛ばせ 上へ上へ その希求力で 休息無き者に先はない 苦しければ いい 眠ればいい 止まれ止まれ 力強く 揺らぎはわたしを縁取る全て 揺らぎはわたしを縁取る全て