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CLEANFODのはじまりの話 ~①はななと震災


こんにちは。CLEANFOODのリーダー原田 です。

今日はCLEANFOODのはじまりの話をしたいと思います。

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(収穫したてのケールを食べる私@茨城県)

原点は畑

私は、京都府南部の井手町という町で生まれ育ちました。

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(井手町観光まちづくりサイトから引用)

段々畑や棚田がたくさんある、山に囲まれた町です。

町の多くの家がそうであるように、私の祖父母も 農業をしており、
みんなで作る野菜やお米が、私は大好きでした。
畑の中ですくすく育つ作物を見て、その色や匂いで季節を感じるのも大好きでした。

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(自然の豊かさを活かして養蜂もやっていたりします)

春は菜の花や桜のやわらかい色、
夏は田んぼいっぱいに育った稲のむせるような緑、
秋は稲わらを燃やす、ちょっと煙たいけど心地よい匂い、
冬は寒い中すくすく育ったひんやりした白菜を収穫。

私の小さいの頃の思い出は、そんなたくさんの色や匂いに包まれています。

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(稲刈り後の家の前の風景です!)

上京した今は、年に数回しか帰れないけれど、
戻るたびに元気をもらえる大好きな地元です。


育てても売れない菜の花

祖父母は一時期、「はなな」の栽培に力を入れていました。

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(これが「はなな」です。「菜の花」や「菜花」ともいいます。)

最盛期は小学校の給食にもうちのはななが出てきて、
恥ずかしいような嬉しいような気持ちだったことをとてもよく覚えています。

はななが八百屋やスーパーに並ぶときは、
ほうれん草や小松菜のように、ひとつかみくらいの束が
透明なビニールの包装でパックされる のが一般的。
農家では出荷の際、収穫したはななの長さを揃えて、
ひと束ずつパックして、そっと段ボールに詰めるまでの作業を行います。

「長さを揃える」と一言でいっても、これが実はかなり手間のかかる作業。
はななは自然のものなので、刈り取っただけではサイズもばらばらです。
その中から規格にあったサイズのものだけを選別するのに、
収穫後の夜遅くまで作業が続き、
祖父母も毎年苦労していました。

ある年、天候の影響などではななが思うように育たず、
ほとんどが規格外になってしまいました。
丹精こめて育てて、時間をかけて選別したのに、
結局、規格外ばかりで出荷できるものはごくわずか……。
もちろん、規格外でも味に変わりはないのですが、「商品」としての価値はゼロ。

その厳しい現実に、祖母は

「来年からもう作るのやめるわ」

と言い、実際にその翌年、生産規模を縮小してしまいました。

幼い私にとってこのことはものすごく心に残っています。
はななが大きくなるまで、一生懸命育ててきた愛情も時間も、
出荷されなければ、意味がなくなってしまう理不尽さを感じショック で、
今でもあの時のおばあちゃんの姿が心に残っています。

福島の農家さんとの出会い

時はとんで、大学生になった私は、
東日本大震災後の復興支援に力を入れていました。

毎月のようにボランティアで東北を訪れたり、

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(2014年2月に岩手県陸前高田で撮った写真)

地元京都の人に東北のことを知ってもらえるよう食堂を開いたり、

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(震災命日にきっかけ食堂という食堂を開いています)

そんな活動をやっているうちに、ある農家さんに出会いました。

その方は福島県で代々続く農家さんで、トマトを中心に米、きゅうり、かぶなど色々な野菜を栽培されています。

震災後、検査で安全性に問題がないと確認されているのに「福島産」というだけで買ってもらえない、いわゆる「風評被害」が続き、色々辛い経験をされたそうです。

農家さんは何も悪くないのに、そんな状況に置かれているなんて、理不尽すぎる……。
震災が関西で起きていたら、私の地元がそうだったかもしれないし、
農家の祖父母の姿を見てきた私には、他人事とは思えない話でした。

でも、その農家さんは「おれたちも悪かったんだ 」と言いました。
なんで??? 悪いことなんてひとつもないのに! そう思って聞くと

それまではただ漫然と作物を作っているだけで、
買ってくれる消費者のことなんて考えもしなかったと。

野菜が売れなくなり、そこから農家さんは自らの足で野菜を売り歩きはじめたそうです。
どんな思いで作っているのか、どんな人が作っているのか、実際に伝えることで、
野菜を買ってくれるお客さんはどんどん増えていったのだとか。
それだけでなく消費者と直に接することで、消費者に求められる野菜を作ろうと工夫するようにもなったと言います。

「既存のルールに縛られず、新しい農業をしていきたいんだ

と、明るく夢を語る農家さんの前向きな姿をみて
「私が同じような境遇になったらひたすら落ち込むだけになりそうなのに、
まわりのせいにしてしまいそうなのに、なんて強い人だろう」
と、私は心の底から感動 しました。

この感動と、幼い時にショックを受けたはななのことがつながって、
私は「新しい農業」を共に担っていける人になろうと決意したのです。

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(福島県白河市で稲刈りをする様子)


この決意から数年して今に至るわけですが、
ここまででずいぶん長くなってしまったので、
続きはまた今度。


次回「事業責任者への道編(仮)」をお楽しみに!

CLEANFOOD事業責任者 原田奈実