月並みの幸福

月並みの幸福
 僕は自分への悪口は全部幻聴だと思う事にした。実際そうだろうし、過去の医師もそう言っていた。僕は長い歳月を費やし、それを理解する事が出来た。そもそも人はそこまで他人の事を見てはいない。僕が自意識過剰になっていただけなのだ。これまで様々な事が破竹の勢いで僕の人生に躍り出た。その中で僕は確かな自信を得る事が出来た。自分なりに創意工夫して、例えば日記をつけたり、アウトプットをしたり、自己啓発書を読んだりしていく中で僕は月並みの幸福を感じるようになった。僕は今自分を愛する事が出来ている。自分を愛するという事は程度が過ぎればナルシシストになるのだが、しかし逆に言えば程度が過ぎなければ持っていても良いのだ。流石にナルシシスト的になっていたら周囲から批判されたり、難色を示されたりするだろうから余程の事がない限りは大丈夫だと安堵していて良いだろう。僕は自分の人生に期待しすぎない事を覚えた。そして少量の幸福を糧に自分を安心させる心理的メカニズムを獲得した。

 また家族旅行に行こうと僕の母が言っている。その言葉が澄み切った空気となって僕の肺臓に至った気さえする程、それは僕にとって嬉しい提案であった。母にはどのような魂胆があるかは分からないが僕は元来旅好きである。親の年齢と子供の年齢を考えるとおそらくそれが僕の生涯最後の家族旅行になるだろう。非常に楽しみだ。行くのなら東日本が良いな。東日本はあまり行った事がないから神秘的なイメージだ。三島とかね。

 僕は今ひっそりと毎日を送っている。無為徒食な日々だ。しかし健康は維持すべく飲酒はしていない、一滴も飲んでいないし、朝散歩も続けている。まだまだ外は仮借ない日光が燦々とアスファルトに降り注いでいるので朝散歩と食料の買い出し以外では僕は滅多に外出しない。しかし昨日は作業所の職員と僕の自宅付近の喫茶店で話した。それは業務上必要な鼎談であった。彼らの口からは今後の僕を真摯に考えている事が開口一番に放たれた。どうやら僕は職場では大変有力に思われているらしい。ユーチューブの動画制作に力を貸してほしいと他の職員が言っていたと彼らから聞いた。僕もいつまでも無為徒食の、根無し草のような生活を送っていては魂が次第に荒廃してしまうというほとんど邪推に近いような妄想を抱いているので僕は来週からでも職場に復帰したいと職員に話した。そうすると彼らは嬉々とした表情を浮かべた。

 僕はこれまで多くの創作物を創ってきた。その中で上手くいったことも多いし、辛酸を舐めた事も多い。しかし僕は自分がフランツカフカや宮沢賢治のように死後にでも評価されれば良いかなあと思っている。時代を凌駕した人間はやはり同時代人にはその突飛さや斬新さ、先見性故理解出来ない。特に僕をいじめるような、迫害するような衆愚は同じように創作をしても粗製乱造に帰着するのが御の字だろう。僕は質と量ともに史上空前の、少なくとも自分でそう是認出来るだけの粉骨砕身、孤軍奮闘をしてきた。それは認めても良いだろう。それを認める事で自己愛が成就される助力にもなる。僕のこのブログは僕が思ったことを僕の独自の文体で表現する事の積み重ねである。そうしていく中でスランプもある。現に僕はあまり豊饒な熱量を持って執筆が出来なくなった。やはり自分にやれることはやりつくしたという驕慢、傲りがあるのだろう。僕はいつの間にか演じていた極端な性質を持つキャラが本来の自分のキャラに侵食し、混合したのを感じる。実際僕はネタに不足しているとは言え自画自賛をしたりしている有様である。しかし僕の頑張りは他人には認められなくてもせめて自分では認めて、ありのままを受け入れられるようにならないといけない。

 世間では富んだ弁舌を持つ中年の女性もいれば、寡黙な少年もいて、実に種々雑多な個性で賑わっている。日本は画一的だとか独創性がないだとか批判する連中もいるが、今の僕はそうは思わない。確かに集団には秩序があり、烏合の衆だとか揶揄する事は出来ない程の統一感はある。まるでそれはカントがイギリス経験論と大陸合理論を統一した認識論を創ったように。世の不条理に悲憤慷慨する人間もいれば、権力者に阿諛追従したり、成人男性に色気を醸し出すような媚態を発揮する女性もいる。様々な生き方があって、僕がいる。僕の人生の主人公は他ならぬ自分自身である。今後僕は明るい性格になって、いつも笑っていたい、仮に僕が何も考えていない痴呆のキャラだと思われても構わない。心のどこかで自分を道化だと思うような諧謔精神がなければ大抵人を喜ばせたり、笑わせたりすることは出来ないだろう。僕は昔人を笑わせたり、喜ばせたりするのが得意だったし、好きだった。それが統合失調症になってからは一気に内向的でつまらない人間になった。成人以後は何とかネット上だけでも人の目を引くような事をしようと様々な取り組みに熱中した。それは学術論文の執筆であったり、芸術創作であったりした。それらは僕の黎明の人生の序章に過ぎない。僕はこれから人生を楽しみたい。皮肉を言うような有象無象もいるだろうが、そんな連中は自分が悔しくて水を差そうとしているのだ。人生を興覚めにしようとしているつまらない人間から僕は離れる。上手く他人からの刺激をかわす事、対人恐怖で社会恐怖の僕だが実際に行動して見たら、なんだ、こんなもんかと拍子抜けする事だろう。僕は既にその光景が目に浮かぶようである。

 恋愛もしたい。僕はこれまで恋多き男である。片思いだらけではあるが。僕は30歳までには結婚したいと思っている。統合失調症は結婚しない、出来ない口実にはならない。統合失調症でも結婚して子供を創って円満な家庭を、月並みな幸福を謳歌させている人々も膨大にいる。もし僕が長身美人から好かれていないのなら僕に原因があるのかも知れない。おそらくそれは性格的なものだろう。顔面については美形な方だと言われるし、背丈も絶対的なデカさ、巨大な体躯だと母親を筆頭に言われている。他人の行動は変える事は出来ないが、自分を変える事は出来るとは古来からもっぱらしきりに言われてきた金言である。僕はとにかく素敵な人々になりたい、その為なら自分のプライドを棄却し、人からどう思われるかを過剰に気にしてしまう対人恐怖に根差した想念を根絶しないといけない。そして今の僕は自分改造が十分に進んでいる。昔より遥かに内面が良くなったように思える。このブログの読者にも僕のしたためる文章を読んで寸毫でもそれを感じてくれれば僕は恐悦至極である。僕のメンタルは変遷する、そして肉体という存在を通して世界と関わる、肉体は窓であり、その窓の健康状態を維持するのは大人の責務である。健康は大事である。

 思想は肉体と一蓮托生である。そしてその思想はめいめいの環境や方向性によって差異が生まれてくるだろう。僕の過去の差別発言は実に破砕されるべき極悪非道、鬼畜の所業であった、僕自身も絶対的に良い人ではない。しかしどうにか僕は自分の悪しき部分を修正させてきた。今でもまだまだ僕は視野狭窄だと思うし、鬱状態になる事も一週間の半数はある。それでも月並みの幸福を得続けていればおのずと人格的に立派な者になれる筈だ。樺沢先生も怒涛の如く動画投稿している中で、毎日を享楽するのが大事だと言っている。他人との意見の齟齬に懊悩するのではなく、ありのままで僕は生きていく。今は障害年金で僕は糊口を凌ぐ生活を送っているが、こういうのも悪くはない。今よりも昔の方が人生というものを曲解していたが、今よりも昔の方が僕は純粋だった。僕は今からでもその純粋さを取り戻せるようになれる筈だ、一朝一夕にはいかないにしても。以上、苦節25年の僕の記事でした。

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