安曇野番外地

長野県に住み着いて30余年。来し方をふりかえって書いておこうかと。

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最近の記事

蓮華山麓(22)─左翼的夫妻

  団塊の世代にときどきそういう人がいる、学生運動をやりすぎてまともな就職ができなかったという人が。ミキオさんがそうだった。    集団就職で名古屋へ出てきて勤めた工場を解雇され、それが不当だと裁判をおこし勝利したというのがヨーコさんだった。   ようするに二人はバリバリの左翼だった。   私が居候をはじめたときは、ミキオさんが病気がちなので田んぼは返した、ということで平飼いのニワトリと少しの畑をやっているだけだった。   有精卵と有機野菜を名古屋の共同購入団体に売っていた。

    • 蓮華山麓(21)─北八ヶ岳の冬

        ミキオさんヨーコさん夫妻の家を訪ねたのは秋も深まったころで、だいたいの農作業はもう終わっていた。   何日か泊めてもらっていろいろ話をするうちに、「冬の間はとくにすることもないから来春からにしてはどうだろう」という夫妻からの提案で、私は出直すことにした。   山小屋バイトなどで住み込み仕事は慣れている。たぶんまた「山と渓谷」かなにかの雑誌で見つけた温泉宿のバイトで一冬を過ごすことにした。いった先は北八ヶ岳の渋温泉である。   茅野駅から乗った諏訪バスは、急坂をウンウンうな

      • 蓮華山麓(20)─田舎暮らしの本

          今も出ているかと思うが、「田舎暮らしの本」という雑誌は90年代初めには季刊で年4回でていた。   近頃この雑誌は物件情報誌の傾向が強くなっていたが、当時はわりと真面目な農業入門、もしくは社会変革を志向するやうな色があったように思う。   現在は農業に関わりたければ農業法人の従業員になって、給料もらって働くのが手っ取り早い。しかしかつて農業は雇われてするものではなくて自らするものだったので、就農と就職は全くべつもの。あくまで自分事としてやるのが就農であった。   この就農を

        • 蓮華山麓(19)─若い日の放浪

            あとになってからそう思うのだが、若い一時期、自分がどこへむかっているのか自分でもわからない放浪の時代を過ごすのは決してムダではない。   会社を辞めて、行った夏の山小屋で、私は女房と初めて会っている。いやそのときは、後に夫婦となるとは互いに夢にも思っていなかった。彼女もまた、勤めを辞めて放浪をはじめたところであった。   山小屋が閉まって下山した後、私はシンキチ君の家にしばらく居候して彼と一緒に農協の米集荷のアルバイトをした。シンキチ君はやはり大学生で山にバイトにきた後、

          蓮華山麓(18)─人生は出たとこ勝負

            会社を辞めた私は、夏の間とりあえず旧知の北アルプス針ノ木小屋にいた。これからどうするのか、まだ何も決まってはいなかった。   よくいうことだが、仕事が嫌だから辞めるというのはよくない、辞めるなら次の目標や予定がたってからにせよ、と。   だが私はそうそう段取りよく歩いていかれる人間ではない。私が辞めたくなったのは、会社や仕事が嫌だからというよりは、生き方に疑問を持ってしまったからだ。   都会的なライフスタイル、勤め仕事で給料を得て、人並みの家を買ったらローンを払い続け、

          蓮華山麓(18)─人生は出たとこ勝負

          蓮華山麓(17)─俺がいなくても会社は回る

            営業部での二年目。この会社の毎年3月、4月は新学期にむけて全国の学校へ教材図書の発送が忙しい。そのため営業部全員が倉庫作業員となって、各学校からうけた注文伝票をみながら図書の数をそろえ荷造りをした。   本は紙である。紙のかたまりは重たい。これはかなりの肉体労働であったが、編集部での頭脳労働のストレスに比べれば屁でもなかった。   その発送作業が終わると、また学校回りの出張旅が始まるのだった。夏の前、どの地方へ行ったか覚えてないが私は犬飼部長と一緒に出張にでた。その頃には

          蓮華山麓(17)─俺がいなくても会社は回る

          蓮華山麓(16)─根なし草稼業

            編集部手伝い期間が終了して、正式に営業部の一員になってからは天国だった。残業も締切もない、外でからだを動かして仕事ができる、ストレスがないのだ。   私の親父が生前語った数少ないためになった言葉がある。「からだの疲れは寝ればとれるが、頭の疲れは寝てもとれんぞ」全くそのとおりである。   この会社の営業部は、日本全国の中学高校を回り、教材の見本本を届けつつ担当教諭に売り込み評価を聞き採用を依頼するという、だから車での長期出張が主だった。   通常1~2週間、長い時は3週間に

          蓮華山麓(16)─根なし草稼業

          蓮華山麓(15)─ブラック職場か?

            営業部希望となったので、今度は営業部長と営業担当常務が会ってくれた。常務というのは社長の義理の弟である。 「あんた、麻雀知っとるかね?」   常務の質問はそれだけだった。 「へい、多少はできますが」 「ほりゃええわ、しっかりやってちょーよ!」   それで採用は内定した。   翌春、営業部に新入社員としてはいったのは私とタガミの二人だった。ただこの年は文部省の指導要領の改定にともなって教科書の全面改訂があった。それにともなって副教材も大幅に改訂することになり、編集作業が忙し

          蓮華山麓(15)─ブラック職場か?

          蓮華山麓(14)─バブルな就職活動

            大学を五年かけて卒業した私は、名古屋の教材出版会社に就職した。   親からあれほど公務員になれ、教師になれと言われ続けてきたが、「男児一生の仕事につく動機が、ただ安定を求むるのみとはいかにも情けないではないか!」と、一顧だにしなかった。   といって特にやりたい仕事も入りたい会社もなく、とりあえず郷里に帰るかというだけであった。名古屋の企業は他にも何社かのぞいてみた。時はバブルである。どこも簡単に雇ってくれそうな手応えはあった。   そんな中、大学の求人欄にはってある浜島

          蓮華山麓(14)─バブルな就職活動

          蓮華山麓(13)─バイト代のつかい道

            初めての山小屋バイトを終えて帰る日、山小屋の親方が「少し色をつけておいたから」といってバイト代を現金でくれた。当時日給は3000円くらいだったから40日だと12万、色がついて15万くれたと思う。それだけの金を手にしたのは生まれて初めてだった。   小屋に残る者達がロケット花火を打ち上げ、時には「ねらい撃ち」で見送ってくれた。ひと夏見慣れた山々を何度も見上げ振り返り、私は何事かをし遂げたような感慨にひたりながら下った。   しかしすすんで留年したのである。親に申し訳ないとい

          蓮華山麓(13)─バイト代のつかい道

          蓮華山麓(12)─山小屋での収穫

            大学生の間に針ノ木小屋での夏山バイトには4シーズン、2年生から5年生までいった。   その間も前期試験の後倒しは続いたが、もう主要メンバーになった私は8月になってから入山して大沢番から始まるのが通例となった。   峠の小屋に上がるのはお盆過ぎだったため、高山植物の盛りは終りチングルマはいつも綿毛だった。   昭和61年の大改築で、峠の小屋には発電機が入り文明化が進んだ。冷凍庫が入り冷凍食品が使われるようになった。ランプの代わりに電灯がつき、明るい食卓で夕飯が食べられるよう

          蓮華山麓(12)─山小屋での収穫

          蓮華山麓(11)─山小屋生活

            大雪渓を登り着いた標高2500mの峠にある小屋は、昭和60年当時まだ電気がなかった。   夜はカーバイドランプの明かりで客に食事を出した。天井には雨漏りを受けるためのビニール袋がいくつもぶら下がっていた。   便所は外にあって、大きな岩のすき間に穴のあいた床板をはり壁と屋根をのせた素朴かつ豪快なもので、しゃがんだ姿勢で小窓から槍ヶ岳が見えるので「槍見荘」といった。これは今もある。   アルバイトは大学生と20代から30代の若者で、峠の小屋と雪渓下の大沢小屋とを一週間交代で

          蓮華山麓(11)─山小屋生活

          蓮華山麓(10)─夜行急行アルプス号

            昭和60年当時、新宿発の中央線夜行急行アルプス号がまだ走っていた。わたしは静岡から東海道線に乗り、富士で身延線の最終に乗り換えて甲府まで行き深夜新宿からやってきたアルプス号にのった。   たしかその当時は塩嶺トンネルはまだ開いておらず、中央線は辰野回りだったと思うが、深夜の車窓はどこを走っているかわからない。また寒いくらいに冷房が効いて窓ガラスは結露していた。登山客はみな座席から床におりてゴロ寝していた。   薄明かるくなったころ松本に着く。大阪からの夜行急行ちくまに乗っ

          蓮華山麓(10)─夜行急行アルプス号

          蓮華山麓(9)─留年決まりの夏山

            大学一年生の夏、アルバイトの履歴書だけは送ってあった。それが針ノ木小屋だった。   大きな山小屋よりは小さなところ、メジャー山域よりはマイナーなところと考えていたら、「山と溪谷」の求人欄でここが目にとまったのだ。もちろん行ったことはない、どこにあるかも知らない。   ただ中学か高校か、国語の教科書もしくは国語便覧で、串田孫一の「山頂」という詩を読んだ。この詩が針ノ木岳の山頂なのである。そのことを覚えていたのだろう。   ところが履歴書送ったあとで前期試験の予定日が発表され

          蓮華山麓(9)─留年決まりの夏山

          蓮華山麓(8)─夏山バイトへ

            大学生になったら山登り、が私の目的ではあったが、それは相当金のかかる道楽だということも想像がついていた。   山岳部やワンゲル部に入れば10万単位で金が要るだろうが、それを親に出してくれとは言いかねた。   そこで金がかからずに山に行く方法として、夏休みの山小屋アルバイトをすることにした。これならひと夏山に居られてバイト代もかせげる、一石二鳥ではないか。   当時の大学は、7月上旬に前期試験があって7月中旬から9月上旬までが夏休み、のはずであった。   ところがその頃さか

          蓮華山麓(8)─夏山バイトへ

          蓮華山麓(7)─スズキ荘

             静大の合格通知を受け取った後、私は大学の寮に申し込んだ。その方が父親の年収から言っても住宅ローンも残っていたし、安く暮らせるのが良いということで。   ところが審査に通らなかった。わずかに年収が基準を越えてたらしいのだ。その知らせがきてから慌てて母親と下宿探しに静岡へいったが、大学近くの下宿屋はもう全てうまっていて、残りは大学から離れたものだけだった。   しかし、残り物には福があるのである。少なくとも、今から思えば、あのスズキ荘は福だった。   四畳半、台所風呂便所は

          蓮華山麓(7)─スズキ荘