安曇野番外地

長野県に住み着いて30余年。来し方をふりかえって書いておこうかと。

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長野県に住み着いて30余年。来し方をふりかえって書いておこうかと。

最近の記事

ブラック職場か?

  営業部希望となったので、今度は営業部長と営業担当常務が会ってくれた。常務というのは社長の義理の弟である。 「あんた、麻雀知っとるかね?」   常務の質問はそれだけだった。 「へい、多少はできますが」 「ほりゃええわ、しっかりやってちょーよ!」   それで採用は内定した。   翌春、営業部に新入社員としてはいったのは私とタガミの二人だった。ただこの年は文部省の指導要領の改定にともなって教科書の全面改訂があった。それにともなって副教材も大幅に改訂することになり、編集作業が忙し

    • バブルな就職活動

        大学を五年かけて卒業した私は、名古屋の教材出版会社に就職した。   親からあれほど公務員になれ、教師になれと言われ続けてきたが、「男児一生の仕事につく動機が、ただ安定を求むるのみとはいかにも情けないではないか!」と、一顧だにしなかった。   といって特にやりたい仕事も入りたい会社もなく、とりあえず郷里に帰るかというだけであった。名古屋の企業は他にも何社かのぞいてみた。時はバブルである。どこも簡単に雇ってくれそうな手応えはあった。   そんな中、大学の求人欄にはってある浜島

      • バイト代のつかい道

          初めての山小屋バイトを終えて帰る日、山小屋の親方が「少し色をつけておいたから」といってバイト代を現金でくれた。当時日給は3000円くらいだったから40日だと12万、色がついて15万くれたと思う。それだけの金を手にしたのは生まれて初めてだった。   小屋に残る者達がロケット花火を打ち上げ、時には「ねらい撃ち」で見送ってくれた。ひと夏見慣れた山々を何度も見上げ振り返り、私は何事かをし遂げたような感慨にひたりながら下った。   しかしすすんで留年したのである。親に申し訳ないとい

        • 山小屋での収穫

            大学生の間に針ノ木小屋での夏山バイトには4シーズン、2年生から5年生までいった。   その間も前期試験の後倒しは続いたが、もう主要メンバーになった私は8月になってから入山して大沢番から始まるのが通例となった。   峠の小屋に上がるのはお盆過ぎだったため、高山植物の盛りは終りチングルマはいつも綿毛だった。   昭和61年の大改築で、峠の小屋には発電機が入り文明化が進んだ。冷凍庫が入り冷凍食品が使われるようになった。ランプの代わりに電灯がつき、明るい食卓で夕飯が食べられるよう

        ブラック職場か?

          山小屋生活

            大雪渓を登り着いた標高2500mの峠にある小屋は、昭和60年当時まだ電気がなかった。   夜はカーバイドランプの明かりで客に食事を出した。天井には雨漏りを受けるためのビニール袋がいくつもぶら下がっていた。   便所は外にあって、大きな岩のすき間に穴のあいた床板をはり壁と屋根をのせた素朴かつ豪快なもので、しゃがんだ姿勢で小窓から槍ヶ岳が見えるので「槍見荘」といった。これは今もある。   アルバイトは大学生と20代から30代の若者で、峠の小屋と雪渓下の大沢小屋とを一週間交代で

          夜行急行アルプス号

            昭和60年当時、新宿発の中央線夜行急行アルプス号がまだ走っていた。わたしは静岡から東海道線に乗り、富士で身延線の最終に乗り換えて甲府まで行き深夜新宿からやってきたアルプス号にのった。   たしかその当時は塩嶺トンネルはまだ開いておらず、中央線は辰野回りだったと思うが、深夜の車窓はどこを走っているかわからない。また寒いくらいに冷房が効いて窓ガラスは結露していた。登山客はみな座席から床におりてゴロ寝していた。   薄明かるくなったころ松本に着く。大阪からの夜行急行ちくまに乗っ

          夜行急行アルプス号

          留年決まりの夏山

            大学一年生の夏、アルバイトの履歴書だけは送ってあった。それが針ノ木小屋だった。   大きな山小屋よりは小さなところ、メジャー山域よりはマイナーなところと考えていたら、「山と溪谷」の求人欄でここが目にとまったのだ。もちろん行ったことはない、どこにあるかも知らない。   ただ中学か高校か、国語の教科書もしくは国語便覧で、串田孫一の「山頂」という詩を読んだ。この詩が針ノ木岳の山頂なのである。そのことを覚えていたのだろう。   ところが履歴書送ったあとで前期試験の予定日が発表され

          留年決まりの夏山

          夏山バイトへ

            大学生になったら山登り、が私の目的ではあったが、それは相当金のかかる道楽だということも想像がついていた。   山岳部やワンゲル部に入れば10万単位で金が要るだろうが、それを親に出してくれとは言いかねた。   そこで金がかからずに山に行く方法として、夏休みの山小屋アルバイトをすることにした。これならひと夏山に居られてバイト代もかせげる、一石二鳥ではないか。   当時の大学は、7月上旬に前期試験があって7月中旬から9月上旬までが夏休み、のはずであった。   ところがその頃さか

          スズキ荘

             静大の合格通知を受け取った後、私は大学の寮に申し込んだ。その方が父親の年収から言っても住宅ローンも残っていたし、安く暮らせるのが良いということで。   ところが審査に通らなかった。わずかに年収が基準を越えてたらしいのだ。その知らせがきてから慌てて母親と下宿探しに静岡へいったが、大学近くの下宿屋はもう全てうまっていて、残りは大学から離れたものだけだった。   しかし、残り物には福があるのである。少なくとも、今から思えば、あのスズキ荘は福だった。   四畳半、台所風呂便所は

          聖に招かれて

            静岡大学の合格通知電報の文面は「フジサンチョウセイフクス」だった。   試験日前日、私は大学の下見に行った。そこは日本平の西斜面の高台にあり、富士山は見えないが北のはるか遠くに白い頂が見えた。あれは聖か赤石か、まるで私を招くようだった。   ところがその夜アクシデントは起きた。静岡中島屋ホテルに投宿した私は、ベッドに眼鏡を置いてその上に座ってしまったのだ。   両のツルがもげてしまった。商店街の眼鏡店に飛び込み、直せないかと聞いたがむりだった。文具屋で瞬間接着剤を買いくっ

          山好き先生

            高校北校舎4階の廊下の窓から、私はよく山を見ていた。濃尾平野の北、長野、岐阜の山々は冬になるとさらに明瞭になり、恵那山、中央アルプス、御嶽、北アルプス白山か?そして伊吹山、濃尾平野からは結構高い山々が見えるのだった。   2年次の担任、猪先生は信州大をでた山好き数学教師だった。猪先生は山岳写真家白川義員のヒマラヤ写真集を貸してくださり、私はその分厚く重い二冊だか三冊組を風呂敷に包んで自転車の荷台にくくって帰った記憶がある。   期末テスト前に休校日があり、それはテスト勉強

          家を出よう、山へ行こう

            大学にはいきませんと言って担任を面喰らわせた私だが、山登りという道楽を知った以上は「大学生になって好きなだけ山に登ろう」という動機で進学を志望した。   私の父親は地下鉄の保線係で公務員だった。夜学の工業高校をでていたが、組織で出世していくのは大卒だということを痛感していたので、息子は大学にいかせたかったのだった。   息子は公務員などには興味なく、地理と歴史が好きだから文学部にいきたいといったら反対された。公務員なら法学部だろうと。   そこで息子は考えた。親父は「私立

          家を出よう、山へ行こう

          鈴鹿山脈の夏

            初めて一人で登ったのは二年生の春休みだったか4月だったか、鈴鹿の御在所岳に行った。   通学に履いている運動靴で登っていくと、頂上近くの急斜面に雪が残っていて滑って怖い思いをした。登山靴が欲しいと思った。   その年の夏には鈴鹿の最高峰雨乞岳をめざして、湯の山温泉から武平峠に向かった。しかし私は前夜、興奮と緊張でろくに眠れず武平トンネルについたころには完全にバテた。トンネル内でゲロを吐き、寝転がってしまった。   小一時間もするとスッキリしてなんとか歩ける気がしてきたが、

          山に登るまで

             美ヶ原に触発されたということもあっただろう、高校生になってから私は一人で登山をはじめた。    高校は名古屋市の西郊、新設の進学校。大抵の者が大学を目指すというのに、私は一年生の担任に「僕は勉強がきらいなので就職します」と言った。あきれたか困ったかした担任は私を進路指導室によんで、一時間以上にわたって説得を試み「まあ進学にしろ就職にしろ、勉強だけはしてくれ」というような結論で解放してくれたと記憶している。    身体が小さい私は中学では卓球部だったが、強くなろうと思った

          そもはじまりは

           昭和51年、小学5年生の夏休み、信州大学生だったいとこの招きで松本を訪ねたのが、私と長野県の腐れ縁のはじまりだ。  伯母とともに名古屋から特急しなのに乗り(あの車内販売のスジャータアイスを初めて食べたのだ)、いとこの学生下宿に泊めてもらい、美ヶ原にバスで行った。まだ車掌さんが同乗していた松電バスだ。  山頂からの眺めは素晴らしかったはずだが、覚えていない。ただ蝿が多かった。そして「この蝿は牛のウンコにとまるから、汚ないんだよ」と、いとこが言ったのを鮮明に覚えている。  松本

          そもはじまりは