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六歳の灘中生 【ADHDは荒野を目指す】

 1-2.

 12歳春、僕は灘中学に入学します。
 そして、すぐに落ちこぼれます。

 当たり前のことでした。

 片田舎にて、勉強するしかないような環境に置かれた上に、「好きな物には没頭しやすい」というADHDの特性のお陰で、どうにか猛勉強することが出来ただけ。
 そんな僕が、都会の中を通って通学することになったのです。しかも手元には、小学校時代には一切持たせてもらえなかったもの――多少の現金もある。漫画雑誌、ゲームセンター、買い食い、そう言ったものの誘惑に、僕が抵抗出来る筈もありません。

 その上、勉強の内容も一気に難しくなります。中学三年間で、本来高校で履修する範囲を終わらせるような学校です。すぐに気を散らしてしまうADHDの僕が、そんな難しい内容の授業をじっと聞いていることが出来る筈もありません――気付けばぼんやりしてしまっています。しかも、教材やプリントもすぐになくしてしまう。宿題は勿論出来ない。そして出題範囲も分からないまま、定期テストの日を迎える。
 そもそも補欠合格がやっとの学力しかなかった僕が、そんな状況でテストに臨んでいるのです。元々素晴らしく有能である上に、きちんと授業を聞き、宿題をこなし、テスト二週間前から猛勉強をする――そんな他の生徒達に、太刀打ちできる筈もありません。

 中学一年の最初の定期テスト以降、僕が一貫して最下位に近い順位を取り続けたのは、ごくごく当たり前のことでした。


 灘校は、「自由」が売りの学校です。
 それは、服装や髪形が自由であるといったことだけではありません。成績が悪くとも、それほど叱られることもありませんし、補習に呼び出されるようなこともありません。生徒自身が反省をし、自身で挽回しようとすることを期待する。そういう、「自主性」「自律性」を重んじているのです。

 これは、素晴らしい校風だと思います。
 嫌がる生徒に無理やり勉強させ成績を伸ばしたとしても、それは一時的なもの。やがて強制がなくなると、その生徒の成績は前より悪くなるものです。勉強とは、自主的に自律的にやった時のみ、本当の学力につながるものなのです。灘校の長年にわたる素晴らしい進学実績が、それをはっきり証明していると言えるでしょう。
 「自由」な灘校。そこは、本当に素晴らしい場所なのです。

 ――有能な生徒にとっては。

 
 そう。
 有能ではない僕にとっては、話がまるで違います。

 失敗したら反省する、それを挽回しようとする――無能な僕には、そんなことが出来る筈もありませんでした。
 反省はします。けれども、挽回のしようがなかったのです。その方法がまるで分かりません。授業を聞くこと、宿題をやること、プリントをきちんと整理すること――それらをすれば良いとは分かっていても、出来ないのです。
 どれだけ気合を入れて授業を聞き始めても、意識はすぐに宙に飛ぶ。宿題をしようとしとも、問題は難しすぎるし、そもそもその範囲を聞いてすらいないことも多い。受け取ったプリントをファイルに丁寧にしまいこんでも、そのファイル自体をなくしてしまう。
 そんなことを繰り返す内に、僕の中から、「挽回しよう」という意識は消え去ります。そしてまた、失敗ばかりの毎日に戻るのでした。

 「ADHDの成長は、一般人の半分のスピードだ」

 そんな言葉を読んだ記憶があります。そして僕は、それに深く同意したものです。
 二十過ぎでようやく多少自意識が芽生え、四十過ぎでようやく多少社会人らしく振舞えるようになった。普通の人が十歳、二十歳で到達する場所に、その二倍の年齢で到達できるようになったように思えます。

 その伝で言えば、灘中に入学した当時の僕は、まだ六歳なのです。
 英才教育を受けたとはいえ、中身は六歳でしかない子供が、自主性や自律性を求められたのです。――日本一有能な、十二歳の同級生達に囲まれて。

 僕に何も出来なかったのは、当たり前のことなのでしょう。

 

 

 そしてこんな状況に陥った僕に対して、その年の秋、ようやく両親が動き出します。
 それまで彼らが動かなかったのは、何も僕を見捨てていたからではありません。彼らは、灘中入学式の際に、教師から言われていたのです。「子供の自立の為に、出来る限り親御さんは手を出さないでください」、と。
 そしてその言葉を、彼らは素直に受け入れていました。当たり前です。僕の兄は、それで大成功をしていましたから。

 けれども、兄とは正反対の成績を取り続ける、その癖何もしようとしない僕を見続けたことで、ついに堪忍袋の緒が切れたのでしょう。
 僕の手助けをするべく、様々な手を打ち始めます。


 そして僕は、地獄に落ちて行きます。

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