『強迫観念』はADHDを救う 【ADHDは高学歴を目指せ】
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授業が聴けない、不注意のミスばかり、継続した勉強も出来ない、計画も立てられないし守れない。
そんなADHDの僕が、京都大学に合格出来た理由として。
受験勉強が、『完全な独学だったから』というのは、間違いのないことです。
他人が絡むと途端に意識が回り過ぎ、余計に失敗をしてしまい、すぐに逃げ出してしまう僕も。
学校にも予備校にも行かず、誰かに質問することもせず。
全てを独力で行うことで。
勉強対象が特定分野だけに偏る、という問題点はあったものの。
最後まで逃げ出すことはなく、勉強を積み重ねた結果。
特定分野だけは、それなりの学力をつけることが出来て。
入試において、その分野ばかりから出題されるという幸運にも助けられて。
読書が好き、というだけの、消極的文系選択だった僕が、どうにか、京都大学の理系学部合格が出来たのです。
その後の人生においても、組織の社員としては、完全に無能だったのに。
小さくとはあっても、自分一人でどうにでも出来る会社を作ってからは、それなりの成果を出すことが出来ました。
ADHDにとって、『独力でやる』ことは、間違いなく非常に重要です。
――ただ。
独力でやりさえすれば、何でも成功できる訳ではない。
むしろ、その逆で。
自己管理の出来ないADHDです。
やろうと決めたのに、中途半端な状態で放り捨ててしまったような経験は、非常に多い。
就職した会社や夫婦関係を含めた人間関係などの大きなことから、片づけをすること、ジムに通うことなど小さなことまで、枚挙にいとまがない。
ではなぜ、『勉強』だけは、管理されなくとも、ある程度のレベルまで出来たのか。
その理由をつらつら考えてみるに。
まずは、勉強に対しては、『しなければならないもの』だという意識が、他のものに比べて圧倒的に強かった、と言うことが挙げられるでしょう。
家族や友人がいなくとも生きて行けるし、仕事をしなくても最悪なんとか食べていけるし、片付けなどしなくとも忍耐力さえあれば何とかなる。
そして勉強だって勿論、やらないならやらないで何とかなるものなのですが。
そこは、『強迫観念』というもののせいでしょう。
物心の着く前から、とにかく勉強だけが大事、勉強をしなければ生きている意味がない、そんな雰囲気の家庭で育った為に。
どんな時でも、『勉強だけはしなければならない』という意識が、常に頭の中にあるのです。
遊んでいる時でも、寝ている時でも。
何かに没頭している時でもない限り、『勉強をさぼっている』という、後ろめたさを感じながらになってしまう。
何かに没頭出来た時も、我に返った時には、より酷い罪悪感を覚えてしまう。
『休みにリラックスする』なんてことは、僕には一切出来ませんでした。
常に、『八月三十一日の小学生』のような状態なのです。
ちなみにこれは、勉強のみならず。
仕事に関しても同じで。
会社の一社員であった時は、土日は仕事を忘れて遊ぶことは出来なくもなかったのですが。
台湾で塾を開いてからは。
『外国で会社を経営する』などという、自身の器量を遥かに超えるような地位に置かれてしまったことで。
常に、仕事のことを考えるしかなく。
どんな瞬間にも、『絶対に何かやらねばならない仕事を忘れている』と思うようになり――実際、大事な仕事をしょっちゅう忘れてしまいましたし――、休日には余計にストレスがたまり。
結局、週休ゼロ日にすることで、ストレスが多少軽減されるような有様。
完全な、『強迫観念』です。
けれども、そのお陰で。
部下の裏切りに遭って会社を奪われても、すぐ作り直すことが出来たように。
勉強からも、『逃げる』ことはしても、『逃げ切る』ことは、しなかった。
幾らでも逃げられる状況にあった筈なのに、それに食らいついて、大学合格まで勝ち取ったのです。
後に全財産を失い、不法就労で逮捕されかけるような羽目に陥っても、会社の再建をやりきったように。
『強迫観念』は、使いようによっては、非常に良い物ではあると思います。
――とはいえ。
そんな『強迫観念』だけで勉強に没頭出来るのか、と問われれば。
そうでもないよな、と思います。
『勉強をしろ』同様、幼児期に頻繁に投げつけられた言葉は、沢山ありますが。
整理整頓しろ、字を綺麗に書け、忘れ物をするな、締め切りを守れ等々。
それらに関しても、頭に叩き込まれたことではあるのですが。
子供時代は勿論、大人になっても、初老になっても、何一つ満足に出来ていません。
と、なると。
『強迫観念』だけではない要素が、そこにはある。
そしてそれは、やはり。
僕にとって勉強は、『楽しいもの』だったということでしょう。
何せ、喜びを感じることが少ないのが、ADHDです。
だからこそ、世の中にあるほとんどのことに、不快を感じてしまい。
すぐに目を背け、逃げ出してしまう。
その一方で、ごく稀に出会える、喜びをもたらしてくれるものに対しては、過剰な執着をしてしまい。
生活や精神のバランスを崩してしまう。
僕は、そういうADHDなのですから。
勉強とは、多くの生徒に忌避されているようなものなのに。
それに対して、自分から向かい合い、逃げなかったということは。
勉強を、楽しいものだと認識出来ていたから。
それは間違いありません。
楽しいものだからこそ、逃げ出さずに真剣に向き合い、結果を出せたのです。
では僕は何故、『勉強』などを、楽しいものだと思うことが出来たのでしょうか?
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