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『強迫観念』はADHDを救う 【ADHDは高学歴を目指せ】

 4.

 授業が聴けない、不注意のミスばかり、継続した勉強も出来ない、計画も立てられないし守れない。
 そんなADHDの僕が、京都大学に合格出来た理由として。

 受験勉強が、『完全な独学だったから』というのは、間違いのないことです。

 他人が絡むと途端に意識が回り過ぎ、余計に失敗をしてしまい、すぐに逃げ出してしまう僕も。
 学校にも予備校にも行かず、誰かに質問することもせず。
 全てを独力で行うことで。

 勉強対象が特定分野だけに偏る、という問題点はあったものの。
 最後まで逃げ出すことはなく、勉強を積み重ねた結果。
 特定分野だけは、それなりの学力をつけることが出来て。

 入試において、その分野ばかりから出題されるという幸運にも助けられて。
 読書が好き、というだけの、消極的文系選択だった僕が、どうにか、京都大学の理系学部合格が出来たのです。

 その後の人生においても、組織の社員としては、完全に無能だったのに。
 小さくとはあっても、自分一人でどうにでも出来る会社を作ってからは、それなりの成果を出すことが出来ました。

 ADHDにとって、『独力でやる』ことは、間違いなく非常に重要です。

 ――ただ。
 独力でやりさえすれば、何でも成功できる訳ではない。
 むしろ、その逆で。

 自己管理の出来ないADHDです。
 やろうと決めたのに、中途半端な状態で放り捨ててしまったような経験は、非常に多い。

 就職した会社や夫婦関係を含めた人間関係などの大きなことから、片づけをすること、ジムに通うことなど小さなことまで、枚挙にいとまがない。

 ではなぜ、『勉強』だけは、管理されなくとも、ある程度のレベルまで出来たのか。

 その理由をつらつら考えてみるに。

 まずは、勉強に対しては、『しなければならないもの』だという意識が、他のものに比べて圧倒的に強かった、と言うことが挙げられるでしょう。

 家族や友人がいなくとも生きて行けるし、仕事をしなくても最悪なんとか食べていけるし、片付けなどしなくとも忍耐力さえあれば何とかなる。

 そして勉強だって勿論、やらないならやらないで何とかなるものなのですが。
 そこは、『強迫観念』というもののせいでしょう。

 物心の着く前から、とにかく勉強だけが大事、勉強をしなければ生きている意味がない、そんな雰囲気の家庭で育った為に。

 どんな時でも、『勉強だけはしなければならない』という意識が、常に頭の中にあるのです。
 遊んでいる時でも、寝ている時でも。

 何かに没頭している時でもない限り、『勉強をさぼっている』という、後ろめたさを感じながらになってしまう。

 何かに没頭出来た時も、我に返った時には、より酷い罪悪感を覚えてしまう。

 『休みにリラックスする』なんてことは、僕には一切出来ませんでした。

 常に、『八月三十一日の小学生』のような状態なのです。


 ちなみにこれは、勉強のみならず。
 仕事に関しても同じで。

 会社の一社員であった時は、土日は仕事を忘れて遊ぶことは出来なくもなかったのですが。

 台湾で塾を開いてからは。

 『外国で会社を経営する』などという、自身の器量を遥かに超えるような地位に置かれてしまったことで。

 常に、仕事のことを考えるしかなく。
 どんな瞬間にも、『絶対に何かやらねばならない仕事を忘れている』と思うようになり――実際、大事な仕事をしょっちゅう忘れてしまいましたし――、休日には余計にストレスがたまり。

 結局、週休ゼロ日にすることで、ストレスが多少軽減されるような有様。


 完全な、『強迫観念』です。

 けれども、そのお陰で。

 部下の裏切りに遭って会社を奪われても、すぐ作り直すことが出来たように。
 勉強からも、『逃げる』ことはしても、『逃げ切る』ことは、しなかった。

 幾らでも逃げられる状況にあった筈なのに、それに食らいついて、大学合格まで勝ち取ったのです。
 後に全財産を失い、不法就労で逮捕されかけるような羽目に陥っても、会社の再建をやりきったように。

 『強迫観念』は、使いようによっては、非常に良い物ではあると思います。


 ――とはいえ。
 そんな『強迫観念』だけで勉強に没頭出来るのか、と問われれば。

 そうでもないよな、と思います。

 『勉強をしろ』同様、幼児期に頻繁に投げつけられた言葉は、沢山ありますが。

 整理整頓しろ、字を綺麗に書け、忘れ物をするな、締め切りを守れ等々。

 それらに関しても、頭に叩き込まれたことではあるのですが。
 子供時代は勿論、大人になっても、初老になっても、何一つ満足に出来ていません。

 と、なると。
 『強迫観念』だけではない要素が、そこにはある。


 そしてそれは、やはり。

 僕にとって勉強は、『楽しいもの』だったということでしょう。


 何せ、喜びを感じることが少ないのが、ADHDです。
 だからこそ、世の中にあるほとんどのことに、不快を感じてしまい。
 すぐに目を背け、逃げ出してしまう。

 その一方で、ごく稀に出会える、喜びをもたらしてくれるものに対しては、過剰な執着をしてしまい。
 生活や精神のバランスを崩してしまう。


 僕は、そういうADHDなのですから。
 勉強とは、多くの生徒に忌避されているようなものなのに。
 それに対して、自分から向かい合い、逃げなかったということは。

 勉強を、楽しいものだと認識出来ていたから。

 それは間違いありません。

 楽しいものだからこそ、逃げ出さずに真剣に向き合い、結果を出せたのです。


 では僕は何故、『勉強』などを、楽しいものだと思うことが出来たのでしょうか?





 
 

 

 

 

 



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