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鼻水を垂らすADHDが、灘中学に合格するまで 【ADHDは荒野を目指す】

 1-1.

 僕は昭和の末期、大阪郊外のニュータウンで生まれ、そこで十二歳まで育ちました。
 それは、僕の人生の中で唯一ともいえる、幸せな日々でした。

 勿論、「ちゃんとした」子供だった訳ではありません。大人になって以降同様、いや、それ以上に、とにかく「だらしない」子供でした。
 当時の写真を見れば、それは一目瞭然です。髪には寝癖。口は半開き。鼻水が垂れている。ズボンからシャツがはみ出している。全ての写真において、そんな酷くだらしない子供がだらしない笑顔を浮かべて写り込んでいます。

 自身の記憶の中でも、確かに僕は駄目な子供でした。いつもクラスの忘れ物チャンピオンでした。教室の机の中はプリントや給食の余り物などが詰め込まれ、ジャングルのような有様でした。
 そして僕がだらしない子供だった最大の証拠となるのは、「女子に全くモテなかったこと」でしょう。恐ろしいほど勉強が出来て、足もクラスで一、二を争う速さでした。贔屓目かも知れませんが、顔立ちも決して悪い物ではありませんでした。つまり僕は、小学生のモテるべき要素をしっかり満たしている筈なのに、バレンタインデーに一つのチョコレートすら貰えないのは当然のこと、僕に近づこうとする女子さえも殆どいませんでした。
 それ程、僕はだらしない子供でした。

 しかも、です。
 当時の僕には、まともな友人が一人もいなかったのです。
 これに関しては、僕自身の責任はそれ程大きくはありません。どうしようもなかったのです。何せ、両親により、放課後クラスメイトや近所の子供達と遊ぶことを、一切禁じられていましたから。さらに言えば、クラスメイト達との共通の話題になるようなこと――「テレビ番組を見る」「漫画を読む」「ゲームをする」「お菓子を食べる」こと、それら一切も両親に禁じられていたのです。
 こんな有様では、学校で顔を合わせ、休み時間を一緒に過ごそうとも、それほど深い仲にはなり得ません。

 十二歳になって、その町を離れた後は、その後四十年近く経った今に至るまで、当時のクラスメイトとは一人も会っていません。もし今後、何かの偶然から再会が果たされたとしても、それが喜ばしい時間になることは殆どあり得ないでしょう。
 何せ、僕達の間には、共通の思い出なんて殆どないのですから。

 僕はとにかく、「周囲から浮いた存在」でした。

 そんな小学生時代でしたが、それでも、僕は幸せでした。

 理由は簡単です。
 当時の僕の価値観においては、そういう状態であることを、不幸だと思わなかったから。そして、そういう状態ではないこと――周囲とは違い、一切の娯楽を断って勉学に励んでいることを、僕は幸福なことだと思っていたから、です。

 そう。
 僕はその時期の殆どを、勉強をして過ごしました。娯楽と言えば、昆虫や星を観察したり、文学作品を読んだりすることだけ。つまり、勉強に絡むような物しか、僕の世界には存在しなかったのです。
 そしてそんな世界においては、遊ぶこと――テレビ、漫画、ゲーム、お菓子などの誘惑に負けることは、とにかく悪いことでしかありませんでした。そしてまた、自分がだらしない子供であることなどは、本当にどうでもいいことでした。勉強の大事さに比べれば。
 勉強に励んでいる自分は、とても正しい存在だ――僕はそう心から信じていました。
 だから、当時の僕は幸せだったのです。


 それでも。

 僕は、不注意優勢型のADHDです。
 言うまでもなく、この特質は勉強との相性が非常に悪い。
 何せ、うっかりミスを繰り返すし、長時間集中出来ないし、他人の話をちゃんと聞けない。勉強なんて満足に出来る筈がありません。いわゆる「がり勉」からは、最も遠い存在と言えるでしょう。

 実際、僕は生涯を通して、「勉強」に苦しめられます。学生時代も社会人時代も、僕は一貫して「劣等生」であり続けました。

 そんなADHDの僕なのに、何故、日本一難しいと言われる灘中入試を突破出来たのでしょうか?

 考えられる理由は幾つかありますが、その中でも大きなものは、以下の二つでしょう。

 一つは、僕がADHDだったから。

 逆説的な話に思えますが、決してそんな複雑なものではありません。

 ADHDが勉強に集中出来ない理由は簡単です。「退屈だ」と感じることに対してはまるで気乗りがしないからです。
 でも、それは一方で、「楽しい」と感じることに対しては、相当に執着してみせる、ということをも意味しています。「過集中」という言葉もありますが、とにかく前後を忘れてひたすら何かに没頭する傾向があります。

 そう。
 小学校時代の僕は、勉強を「楽しい」と感じていたのです。他の何物よりも楽しい、どれだけでも集中できるものだったのです。

 勿論、勉強に対してそんな風に感じていられたのは、他の一切の娯楽を禁じられていた、小学生時代だけのことです。
 後に、はるかに魅力的なもの――ゲームだとか漫画だとか、女性だとか――に接するようになると、勉強は「この上なく退屈なもの」へとあっという間に転落するのですが、この時代だけは、僕はそうではなかったのです。

 だから、小学生時代の僕は、楽しみながら猛勉強をし、優秀な成績を修め続けることが出来たのです。

 それでも。
 猛勉強だけで合格出来る程、灘中は甘くはありません。

 しかも、受験に近づくにつれて、僕の勉強量は逆に減少をし始めたのです。

 仕方のないことです。
 好きなことに没頭できるADHDですが、飽きが来るのが早いのもADHDです。うまく成績が伸びている間、しっかり理解出来ている間は楽しくとも、少しでも挫折したり混乱したりすると、途端に退屈を覚え、それから逃げ出すようになるのです。

 当時の僕の状態が、それでした。
 六年秋になり、ミスや理解出来ないことが増え、成績は伸び悩む。その分勉強から逃げるようになり、さらに成績が悪化する。そんな悪循環に陥ってしまったのです。
 そしてその状態から回復出来ることもなく、最悪の状況のまま、受験本番を迎えてしまいました。

 そして、僕は失敗をします。
 灘中学の前に受験した東大寺学園とラ・サール学園入試にて、見事に双方不合格になってしまいます。

 親は酷くショックを受けていたようでした。
 勿論僕も悲しくはあったのですが――それは大したことではありませんでした。僕はもう勉強のことなど考えたくもありませんでした。如何に純粋培養された子供もであっても、十二歳ともなれば、少しは視野が広がるものです。流石に、勉強より楽しい物の存在を認識するようになっていたのです。
 中学生になれば、自由に遊べる――テレビも見れるし、ゲームも出来る。そんなことを夢見て、早く日々が過ぎることだけを願って暮らしていたのです。
 受験結果なんて、どうでも良かったのです。


 それでも。
 流石に、灘中学の受験だけは、頑張りました。
 それが最後でしたから。
 そう思うと、素晴らしい集中力が発揮されたようで、僕はかつてない手応えを感じつつ、その二日間を終えることが出来ました。


 けれども、奇跡は簡単には起きません。
 結果は、やはり不合格でした。合格最低点よりも七点も下。僕にしては良い得点ではありましたが、合格辞退者の殆ど出ない当時の灘中入試、とてもではないが補欠合格も望めないような得点でした。

 その日小学校から帰宅した僕は、親からその結果を知らされ、そして一人子供部屋に行くよう指示されました。恐らく、傷ついている男の子を一人にしてあげようという、親なりの優しさでしょう。
 けれども、僕はやはり平気でした。勉強だとか灘校だとか、どうでも良かったのですから。ベッドの中で僕は泣こうかと思いましたが、涙は一切出ませんでした。ただ、解放感だけがありました。

 そうして僕は、猛勉強をしながらも、最後の見事な失速の末に中学受験に失敗、普通の公立中学に進学するーー筈でした。


 けれどもそこで、僕を灘中合格へと導く、二つ目の要素が姿を現すのです。

 それは、一つ年上である、兄の存在です。

 彼は、掛け値無しの天才でした。
 小学校時代には模試で何度も全国一位を獲得。灘中入試では四位に終わったものの、その後灘中学一年一学期の中間テスト以降、灘高校卒業に至るまで、全ての定期テストで首位を取り続けました。
 実際、さほど勉強はしていないのに。


 そんな、灘校開校以来の天才と賞賛される生徒の、僅か一つ年下の弟。
 それが、合格点よりも僅か七点ーー体調不良一つで失ってしまいそうな点ーーだけ足りない得点を取った。

 この生徒は、優先的に合格させるべきだーー当時の校長がそう指示をしたのだ、と、後になって僕は聞かされました。


 かくして。
 ADHDであり、勉強を嫌いになっていた僕のもとに、灘中学補欠合格の通知が届いたのでした。
 流石に僕は、大喜びをしました。

 ただでさえ楽しみな中学生活が、これでより楽しいものになる。
 そう信じて、十二歳春、僕は灘中学の門を意気揚々とくぐったのでした。

 それが、地獄のような日々の始まりであることなど、夢想だにせずに。

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