ルンビニの悪霊 その③ 【旅のこぼれ話】
ガタガタ揺れるトラックの荷台の上で、僕は思いました。
――つまり、宿の主人の息子が言った、『ジュンドラ』とは、現地の悪霊のことで。
――その悪霊が、夜中に僕の部屋に入り込み。
――床の上を跳ねて近づき、僕に襲い掛かろうとした。
――けれども、宿にあったあの棒、あれは錫杖で。
――錫杖とはそもそも、悪いものを追い払うための仏具であって。
――宿の錫杖も、『ジュンドラ』なる悪霊と『ファイト』、つまり戦ってくれて。
――見事にそれを追い払い、僕を守ってくれた。
そういうことだ、と僕は結論づけます。
勿論。
そんな話、僕は微塵も信じていません。
夢である、と確信しています。
僕はただ、そのストーリーが気に入ったのです。
何せ、ネパールやインドは、お釈迦様の生まれた場所であるのに、大半がヒンドゥー教を信じる国。
そんな国の中に、ポツンと存在する、鄙びた仏教の聖地で。
仏教国から来た僕を、仏具である錫杖が、悪霊から守ってくれた。
非常に分かりやすい、うまく出来た話です。
怪談は、どこの国の人相手でも、喜んで聞いてもらえる、非常に良いコミュニケーションツールです。
村から遠ざかるにつれて、昨夜覚えた恐怖心など、みるみる消え去って行き。
真実なんてどうでもいい。
面白ければそれでいい。
そう思ってしまう、ADHDの僕は。
この話をどういう構成にすれば、怖がってもらえるか、ということばかり考えてしまいます。
――この話は、余りに分かりやす過ぎて、嘘くさくはなるけど。
――夢かも知れないけれども、僕が不思議な体験をしたのは、確かな事実だし。
――その臨場感をしっかり出せば、その嘘くささも多少は脱臭できるのじゃないか。
――そう、あの、ベッドに近づいてくる時の、ドンッ、という音。
――話している途中に、手近の床などを叩いて、あの音を表現すよう。
――それも、最初は弱い音で、それをどんどん強い音にして行くことで、緊迫感を増す。
――そして最後は、僕はただ眠った、じゃなくて。
――そう、怖くて布団の中に潜り込んだところ、何かが上にのしかかって来た、ということにしようか。
――で、恐怖の余り無意識に念仏を唱えた途端、それが消えて、気を失った、と。
――そして翌朝、折れた錫杖が落ちていた、ということにしよう。
――しかし、この話を英語に直すなら、どうすればいいんだろう?
――錫杖とか念仏とか、英語でなんて言えばいいのだろう?
――まあ、その辺りは適当でいいか。
――とにかく、聴覚で怖がらせるのは大事だし。
――あの、ドンッ、ドンッ、という音。
――あれなら、どこの国の人にも伝わるだろう。
――あの音をしっかり出せるようにしないと。
そんなことをひたすら考えて。
移動の厳しさ、退屈さを凌いだのでした。
――それから、一か月ほど後のこと。
僕は、ネパールの首都・カトマンドゥでゴタゴタに巻き込まれ。
他の日本人旅行者数人と共に、ネパール人の若者と大乱闘をする羽目に。
警察も介入する、大事になってしまいました。
当初は、こちらの主張を中々理解して貰えないし、訴えなどの手続きもややこしく、悪戦苦闘したのですが。
やがて、僕達の苦境を聞きつけた、現地在住の日本人男性が現れ、無償で通訳や仲介の労をとってくれた途端。
話はとんとん拍子に進み。
数日後には、こちらの完璧な勝利という形で、全てが解決してしまいました。
そして。
その日本人男性に対する、お礼をかねた食事の席で。
僕は、このルンビニの悪霊の話をしたのです。
――ルンビニには、『ジュンドラ』という悪霊がいて。
そう僕が言った途端。
男性は首を傾げました。
――そんな名前の悪霊、聞いたことがない。
――勿論、僕の知らないローカルの霊なんて、幾らもいるだろうけど。
――でもそもそも、ネパールには妖怪は沢山いるけど、幽霊の類はそんなにいないものだし。
――夜中に忍び込んでくる悪霊って、余り聞いたことがないんだけど。
そんな言葉に、出鼻をくじかれた僕は。
それでも、態勢を立て直し、話を続けます。
そして、山場。
ドンッ、ドンッ、という音を出すために、テーブルを激しく叩こうとして――でも、料理の沢山並ぶそこを見て、流石に慌てて手を引っ込めます。
でも、口で音を出すだけ。
余り盛り上がりどころもないまま。
どうにか話し終えます。
男性は、大した反応も見せず、首を傾げたまま。
そして、話終わった所で、彼は言います。
――それ、本当に『ジュンドラ』だった?
――もしかして、『チュチュンドラ』じゃない?
APD(聴覚情報処理障害)持ちで、自分の聴覚に一切自信のない僕は、そうかもしれない、多分そうです、と急いで頷きます。
――なるほど。
男性は、笑い出しました。
――なるほど、確かにそれは、本当の話だね。
――錫杖でチュチュンドラを追い払った、実際にあった話だね。
そう言います。
僕はその言葉に勇気を得て、勢い込んで。
――『チュチュンドラ』とはどういう霊なのですか?
そう尋ねると、男性は少し笑って、言いました。
――ネズミ。
は? 僕は面食らいます。
――まあ、正確にはネズミじゃなくて、モグラの仲間らしいけど。
――このチュチュンドラは、しょっちゅうネパールの家屋に忍び込んで、色んな被害を与えるんだよ。
――食べ物はもちろんのこと、紙とかも齧る。
――最近も、答案用紙全部を齧られてしまって、テストが無効になってしまった学校だとか。
――金庫に侵入されて、紙幣を食い荒らされてしまった銀行だとか。
――そんな被害を出す事件、幾つもあってね。
――ネパールの人達は、このネズミを本当に毛嫌いしている。
だから、と男性は笑ったまま言います。
――多分、その宿にも、そのネズミが侵入してきたんだろうね。
――で、それに気付いた宿の人達は、急いでこのネズミを追い払おうとした。
――でも、ネズミは天井裏に逃げ込んだ。
――そこで、宿の人達は、手近にあったどうでもいい棒、つまり錫杖を使って。
――その部屋の天井を、つまり君の寝ている部屋の床を、勢いよく突いたんだろうね。
男性は笑って。
汁物がこぼれるのも構わず、テーブルを拳で叩きました。
――ドンッ、ドンッ、って。
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