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文章のクセを矯正するな オリジナリティと言い張ろう

文章というのは同じ日本語なのに、どうして表現方法が異なるのか。

そして、なぜそれで相手に伝わっているのか。

不思議だ。

noteで色んな記事を見ていると、同じような文章の人は少ない。

クセのある人が多いように思う。

でも 同じフォーマットで書かれているのか?という文章も見かける。

どうやら 書き方の順序については読みやすいルールがあるようで、それを実践されている人も多いようだ。

それに関する記事もよく見かける。

全員が同じ書式で書いた方が、内容での良し悪しがわかっていいのかな。

「まずは読んでもらう事が大事」とよく見る。

たしかにそうだ。

せっかく書いた超大作も 読まれなければ意味はない。

だから 序盤で読者をひきつける必要がある。

その理屈はわかる。

書くことを職業にしている人には必須テクニックなのだろう。

でも、全員が同じような構成で文章を書いてしまったら はたしてそれは面白いのだろうか。

結局は読まれずに埋もれてしまうのでは?

書式通りに文章を作成するのは、それこそ生成AIがもっとも得意とする分野だ。

別にAIに対抗する為に というわけじゃないけれど、自己流で独創的な文章が 結局は多くの人に読まれるのではないだろうか。

まったくのオリジナルということは不可能だろうけれど、型にハマらないというぞ!と抵抗はできる。

自分の文章のクセをスキになってくれる人を増やす努力をした方が、なんだか創作意欲が湧く気がする。

大衆に向けて、ひとりでも多くの人に読んで欲しいというのが作者のニーズなら 作法に従って文章を作成すればいい。

でもnoteは各クリエイターがスキに文章を書く場ではないのか。

そういう僕は別に独創的なことをしているわけでもなく、偉そうな事を言える立場にはないかもしれない。

でも、そういう作法を意識しながら書くことが 僕は楽しくない。

だから、結論から書こうとか 見出しをつけようとかは 大きなお世話。

自分のオリジナリティを破壊する行為だ。

とはいうモノの そういった基礎ができていないと、応用もできないのも事実。

そうなると自分のオリジナリティも確立できない。

奇抜な人ほど、以外と基礎はしっかりしているモノだ。

だから自分の作風(オリジナリティ)を忘れずに、そういった技法 作法があることは勉強し うまく融合させることで、作者も読者も嬉しい結果になるはず。

僕は誰にも師事を仰がずにやっていこうと思っていたが、それは非常に効率が悪い。

noteには無数の師匠クラスがひしめき合っている。

その技法、作法を学ぶ環境は整っている。

読みやすいなと思う人の記事をよく読んで、分析してみよう。

スキじゃないと感じたクリエイターの記事を参考にする必要はない。

楽しく創作活動に精を出そう。

あなたのオリジナリティが後世のスタンダードになっているかもしれない。


さて、僕のオリジナリティとはなんだろう。

「普通」かな。

「普通な文章を書く」というのが 僕のオリジナリティ。

え?

それはオリジナリティとは言わない?

甘い。

オリジナリティとは 言った者勝ちなのだ。

自分の拙い文章は、どんなに支離滅裂でもオリジナリティと言い張ろう。

そしてコソコソと基礎を学ぶのだ。

そうしている内に シン・オリジナリティへと変貌を遂げる。

自分を見失わずに少しずつ完全武装するだ。

周囲の文章が型通りの定型文に成り果てた時、僕の普通の文章が「逆に新鮮」と言われるようなオリジナリティを発揮する時が来る。

楽しみ。

ではまた。

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