ビジュアルシンカー -ゆる言語学チャンネルより
このチャンネル
ゆる言語学ラジオをみて。
二人のものすごく頭の良い人
(少なくとも自分にはそう思う)
が高速の論理バトルを繰り広げる。
そんな息する間もない動画だった。
(未知なる生物たちの会話?)
「えーと、二つ映画をみて、この映画には感動して、一方こちらの映画には感動しなかったという。それはなぜですか?
二つの映画にある明確な違いとは何なんですか?」
おいらはこの手の質問は、会社の就活くらいでしか聞かれない様式であると信じていた。
多くの人々は、なぜ自分がそう感じたのかなんて言語化できないように思う。
しかし、未知なる人類たる彼ら(?)は、それを難なくこなす。
それが、うらやましくもあり
どっか見ていて窮屈さも感じてしまった。
自分にはそういったことは、できないからだ。
(もしかしたら、時間をかければできるかもしれないが、
彼らのようにノータイムでは不可能!!)
「窮屈さ」というのは、彼らの会話を聞いていると
(もちろん彼らはそのことを意図していないだろうが)
「自分の感じたことや考えたことをを、直ちに表現することは当たり前!」
って感じがしてくるのだ。
でも一方で自分にはややメンヘラ気質があるようで、
「こういうこと考えたんだけど、誰も興味ないと思うからいうのはよしておこう」
とか単純になにも思ってない時などがあるので、
(何も思ってない時のほうが多いです、はい、、)
きっと自分の意見に自信があまりないんだろうな。
ふむふむ。
なるほどなるほど。
少しずつ練習していかなくてはね。
それはそうとして、
引き出しが空っぽな時のほうが多い。
そんななかで、
「ない引き出しから無理やりにひっぱてこないと!!」
という切迫感が、自分の窮屈さを生み出しているように思う。
水野さんや堀元さんも(ゆる言語学のパーソナリティのお二人)
「おれら何も特に用意せずその場で考えながらはなしているでい」
と言っていたのだけど
きっと、引き出しの使い方がうまいのだろうな。
と思った。
南極料理人のように、限られた食材でなるたけ豪華な料理をつくる。
だとすれば、
もし話し上手な人がいれば、その人は、
お話界隈の南極料理人なのかもしれない。
(それってもしかして、ペンギンさんをみながら談笑している?)
カンカン照りの太陽のもと
氷に反射したお日様。
氷の上で、程よい汗をかきながら
南極料理人は
ゆうゆうと
メロンソーダを飲んでいるのかもしれない。
動画の議論の大雑把な流れ
1.この世には、右脳派、左脳派のように
「絵で考える人」と「言葉で考える人」がいる。
特に「絵で考える人」をビジュアルシンカーと呼び、以下扱う。
2.ところで、なんか会議とかで意見がないひととかいるけど
なんも考えていないんじゃない?
おいらそういうのめちゃくちゃイライラしてくる。
こっちは、ちゃんと考えて発言しないとってやってんのにさ。
3.しかし、そうではない。会議で発言をしないものは
ただ、ボケーっとしているわけでなく、もしかすると
いろいろ考えているが、表現がまとまらず、
それにより、はたから見ると何もしていない人のように映っているのかも
しれない。
(もしかすると、こちらが思っている以上相手の思考が複雑であるという可能性すらある。)
4.そんなわけで、全ての人が直ちに物事を言語化できると思わないほうが良い。もしかしたらその人はビジュアルシンカーかもしれないからだ。
でもでもさあー
黙っている人が、さぼっているとか阿呆だなんて思わないほうが
きっとよい。(もちろん、堀本さんもそういってました。)
というのも、おいらはすべての人々は芸術家であると思っているから
何も、目立った表現をしない人も、自分の内的世界を旅行していることを
知っている。
でもそれでも、やっぱり表現をしない人をちょっと悪く思ってしまうのは、
「俺ばかりが、表現をしていて能動的であるのに、お前はいつも受け身でずるい!」
みたいな、
自分の我が大きく出ているように思う。
とりあえず、それらのおちょくりは、何ら本質的ではないということを
念頭においておくことがよいだろう。
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