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非嘔吐過食と歩む25年・私のダイエット遍歴②
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◆【小学6年生のある日】はじめての「過食」
初めての過食は、12歳のある日のことだった。
前後のことはよく覚えてないが、台所に母が立っていて、夕飯の準備をしていた。
おやつと言うには遅めの時間だったと思うんだけど、テーブルの上にはおやつとして、このチョコが袋ごとドーンと置いてあった。
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私は、母に話を聞いて欲しくて、気にかけて欲しくて、でも母は機嫌が悪いようだった。声をかけるのが怖かった。
「どうしたら母は振り向いてくれるだろう」「どうしたら母の気を引けるだろう」と考えた末に、「そうだ!テーブルの上のチョコを食べ続ければ、なにか様子がおかしいと気付いてくれるかも知れない」とひらめいた。
そして、チョコレートをひとつ、またひとつ、またひとつ…と、ひと袋空になるまで食べ続けたのである。いや、実際は食べきれなくて、最後少し残した。これが生まれて初めての「過食」だ。
ところが、娘の想いに反して、母はこの奇行に少しも気付きはしなかった。
振り返りもしなかった。
無視され続けることが情けなくて、しかも食べすぎてお腹が痛くて苦しくて、私は泣いた。泣いてるわたしに気付いた母がようやく振り返った。
「お腹痛い…」と泣く私に、母は怒鳴った。
「そんだけ食べりゃ当たり前でしょ!!」
私は、ひどく悲しかった。
あの時のことを思い出すと、今でも泣きたくなる。あのチョコレートをスーパーで見かけるたびに、苦しくて、吐き出したくなる。
なんで私の気持ちは、いつでも無視されるのだろうか。私の意見は何故いつも亡き者とされるのか。
いわゆる「インナーチャイルド」とかいうものである。私はおそらく、ここで「私=いてもいなくても良い存在」という価値観を確立したように思う。
◆【余談】したくもない中学受験
小学校4年生からは中学受験のために塾に通っていた。これもまた本意ではない。
私は小学校の友達と一緒に、地元の中学校に通いたかった。そのことは親にも何度か伝えたはずである。
しかし、私の意志はまったく尊重されなかった。
何故か我が家には「中学受験は必須」「中高一貫の女子校に行くこと」という鉄の掟が敷かれていたようで、それが何故なのかはよく分からなかったが、私は子供なので従うしかなかった。
(大人になってから尋ねたら「生理の時に、共学だとナプキンを持ってトイレに行くのが大変だから」と理由を告げられて、ひっくり返った。他にも理由はあったのかもしれないが、私が聞いた時にはそれしか教えてもらえなかった)
で、何が最悪って、受験のために通っていた塾。私の母の中高時代の先生だった人(恩師?)が講師を務める、ボロいアパートの2階にある個人経営の塾(調べたら今もあるみたい!!)。
そこが、今で言う体罰は当たり前。いや、当時で言っても体罰なんだけど、その頃は体罰って今みたいに厳しくなかった。
その塾では、テストの点数が悪いと足りなかった点の分だけ頭を竹刀で叩かれるのだ。10点につき1発。100点満点で50点だと、5発叩かれる。
ただ、頭をあんまり叩くと脳に良くないという理由で、2発目までは頭。3発目からは尻になる。なんだそのしょーもない配慮は。
で、尻は多少強く叩いても大丈夫だと思ってるのか、すげースイングして叩かれる。40代後半?50代?だかそこらの、太めの男性教師が、竹刀をフルスイングで、子供の尻を叩くんである。異様じゃない?
成績上位の子は、基本叩かれない。
(点数が良いからね)
叩かれても優しく叩かれる。
ところが成績20番を越してくると、どんどん強度が強くなる。
生徒は50人近くいたと思うが、40〜50番目の生徒は毎度全力で叩かれた。叩かれながらおちゃらける男子、それを見てケラケラ笑ってる成績上位の生徒、笑いながらケツを叩く先生、すべてが異様だった。恐怖でしかない。しかも、成績が多少悪くても、可愛い女の子は優しく早く叩かれるだけでおしまい。これもまた気持ち悪かった。
我が家は姉も妹も成績が良かった。
父も母も、優秀だった。
私だけがいわゆる「普通」だった。
小学校ではクラスでも上位の成績だったが、塾だとごくごく平均的。大体、16〜25番あたりを行ったり来たりしていた。
奇跡的に妙なやる気が出て頑張った一時期だけ、5位まで食い込んだことがあったが、逆にやる気がない時期(というかもともとやる気はない)には40番代になることもあり、尻にミミズ腫れができるほど叩かれることもあった。
そんな体罰塾に、週に1〜2回、電車を乗り継いで、駅からは徒歩20分もかけて通うのである。
5年生、6年生と通ううちに、心は病んできた。行きたくない。本当に行きたくない。別に私は受験なんかしたくない。
そのうち、仮病を使うようになった。しかし、小学生の仮病なんかもちろんすぐバレるので、鬼の形相の母に家を追い出される。
そこで、今度は塾の最寄り駅まで行って、公衆電話から塾に休みの連絡を入れ、塾が終わる時間まで駅ビルで時間を潰すようになった。
ただ、その手も何度か使っているうちにバレたようだ。呆れた母が、ついに塾の入り口まで送迎することになった。
それでも私は塾に行きたくなかったので、母に入り口で見送られた後、階段を上がって踊り場の下駄箱で靴を履き替えるフリをして時間を潰す。5分くらい経って、母がいなくなっただろうタイミングで、階段を降りた。
母がまだいた。
それこそ、鬼の形相で立っていた。
毛穴という毛穴から汗がブワッと噴き出したことは覚えてるが、その後の展開は全て記憶から消えている。どうしたんだっけ?
とにかくその時に「私は逃げられないんだな」と確信して、絶望した。
その後、ますます病んでやる気を無くした私の成績は落ちるばかり。
そうこうしてるうちに、塾も辞めることになったんだっけか?
あんまり覚えてないんだけど、最後に母と先生との面談で、「あの子は個性的すぎるし、成績的に上位校の受験は無理であろう。偏差値的にはそこまで高くないが、個性を尊重する校風の○○学園が合ってると思うので、そこを受験してみてはどうだろうか?」という話になったようだ。
違う違う、そうじゃない。
受験をしたくないんだってば。
地元の中学に行きたいんだってば。
再三伝えてきた(と、思う)んだが、伝わってないのかなぁ?
私はなぜか、全く知りもしないし、1ミリも行きたい気持ちなど持ち合わせていない○○学園を受験することになった。
そして受かってしまった。
これがまた、地獄の始まり。
◆【さらに余談】いつも無視される私の本心
ちなみに、私は幼稚園年長からピアノも習っていた。「ピアノをやりたい」と言い出したのは私。ただ、続けるうちに、そんなに好きではなくなっていた。楽しくない。
そんな折、小学校1〜2年生の頃だったか、仲良しだった女の子の家に遊びに行った時に、ちょうど習い事(新体操)の日だというので、一度見学させてもらったことがある。
その時の友達のレオタード姿や、リボンやボールを見て、私の心はときめいた。
「素敵!私もやりたい!!」と心が躍る心地がした。ピアノはもう辞めていい、新体操をやりたい!
帰宅後、興奮しながら母に「新体操をやりたい」旨を話した。すると、特に理由もなく「新体操はダメ」と却下された。ピシャッとそれだけ。
「ピアノを始めたばっかだから」とか「どうせ続かないから」とかじゃなくて、「新体操はダメ」と言われたのだ。なんで?
体験レッスンに行くことすら許されず、即座に突き返された新体操への憧れ。それが何故だったのか、未だ理由が分からないが、個人的にはレッスン費の問題や、楽器を習わせたい(3姉妹とも楽器をやっていたから)という母の希望があったためかと推測している。
でも時々考える。あの時、新体操を習っていたら、私の人生はどうなったんだろう?
テレビで新体操の選手を見るたびに、体操のお姉さんを見る度に、この「if」が頭をもたげ、なんとも言えない気持ちになる。
いや、始めたところでどうせ続かなかったかも知れない。
だけど、もしあの時許してもらえてたら、今はもっと陽キャだったかもしれんなーとか、もっと可愛い女子だったかもなーとか、そういうどうしようもないことばっか考えている。考えずにはいられない。
結局、ピアノは15歳で辞めたのだが、中学に入ってからはろくに練習もしなかったので、先生も毎回イライラしていて全く実りのない時間だった。それこそお金がもったいなかった。
ピアノもピアノで、何で通いたくなかったかと言うと、単純につまらなかったからということに加えて、小さな頃に変質者にイタズラされた道を通ってひとりで通わないといけないからという理由があった。
ひとりで通うのが、怖くて仕方なかった。ピアノに行くたびにその時のことを思い出すのだ。気持ち悪い。怖い。近くを男の人が通るとビクッとする。女の人を見つけると、駆け寄ってなるべく近くを歩くようにしたものである。
変質者の件は詳細割愛するが、遭遇当日に大泣きして帰宅した私に、母は「うるさい!もういい!」と怒鳴った。
私はまだ小さかったし、自分じゃうまく説明できないし、変質者のことを口に出すのも恥ずかしくて、「うん」とか「いいえ」だけで答えられるように母からうまく聞き出して欲しかったのだけれど、ちゃんと話さず泣いてばかりの私に母は痺れを切らしたんだと思う。
変質者のことを話せたのは、ずいぶん大人になってからだった。
ただ、ひとつ断っておきたいのは、全てのトラウマの原因が、母だと言いたいわけではない。
そういうのはもう乗り越えた。仕方がなかったと思っている。
いったら全く話に関わってこない父も、どうかと思うし。インナーチャイルドは、親の努力に関わらず必ず生まれるものであると理解している。
それに、今のわたしは、当時の母にそっくりだ。怒鳴る気持ちも、悲しいかな、分かってしまう。
いくら子供の気持ちに寄り添った母親になりたいと思っていても、母と同じことは繰り返さないと固く決意していても、このざまである。
今のわたしは、過去のトラウマから、ただただ過干渉でうるさくて、子供を信頼せずに縛り付ける、ヒステリックな母親になった。
…さて、こんなペースで書き終わるんだろうか、果たして…
でもまぁ人生の棚卸しだから。
長くなることは覚悟して、ただただ書き進めていく。
〈つづく〉
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