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いつもコーヒーをちょっと残してしまうのはなぜだろう

2023/9/1

毎日日記を書くつもりが3連続飲み会のせいで途絶えた。毎日続けるというのはかくも難しいことなのか。

たのしいたのしい飲み会のことを思い返していると、ふとテーブルの上に置いていたマグカップを見ていた。中にはちょっとだけコーヒーが残っている。朝に飲んでたやつだ。自分にはなぜかわからないが飲み物をちょっとだけ残す癖がある。コーヒーであったり、ペットボトルの炭酸飲料だったり、いつもほんのちょっとだけ残してしまう。このことをだいぶ前に友人に話したら、彼もなぜかわからないがちょっと残してしまうらしい。

それから僕は、この「ちょっと残し」はくせを超えた、人類共通の本能的な習性なのではないかと思うようになった。動物の習性にはだいたい理由がある。たとえば、赤ちゃんの手のひらに触れると、ぎゅっと握り返してくるあの可愛い反応は、私たちがまだお猿さんの時代だったころに母猿から落ちないための反応のなごりとか、そんな話を聞いたことがある。(だいぶ前に聞いた話なので真偽の程は不明)じゃあこの「ちょっと残し」の理由とはなんなのだろう。原始時代に立ち返って考えてみることにした。

原始時代。当時は今みたいにスーパーにいったら食べ物にありつけるようなそんななまやさしい時代ではなかった。いつ餓えるかわからない、飢餓との戦いだっただろう。そんな時代に、たまたまコーヒーにありつけた一人の幸運な男がいた。彼の名はケン。ケンは久しぶりのコーヒーに歓喜したに違いない。これで明日も頑張れる。そう思いながらケンはコーヒーを飲んでいた。しばらくたって、マグカップの中のコーヒーが残りわずかになった時ケンは悩み始めた。これを飲み干せば明日コーヒーがのめない。でも明日も飲みたい。明日森から帰ってきた時に、コーヒーがあったらどれだけ幸せだろう。うん、明日のためにちょっと残しとこう。手にしていたマグカップをそっと地面においた。

こんなことが原始時代にあったのではなかろうか。そしてケンは私たちの祖先である。明日のためにちょっと残そう。飢えていた私たちの祖先にとって「ちょっと残し」は明日への希望なのだ。それが時代を経て現代。食べ物に困らない私たちは、食べ物に困っていた祖先の名残からいつも「ちょっと残し」てしまう。そんな感じではないだろうか。それから僕はちょっと残ったコーヒーを「明日への希望」と呼ぶようになった。


でも、味噌汁はいつも飲み干してるのはなぜだろう・・・。


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