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昔は、他の人を手放しで尊敬していた

みなさんは小学生の時の担任やクラスメイトの名前を憶えていますか?
私は、流石にクラスメイトは数人怪しいのですが、ほとんどフルネームで覚えています。

しかし、中学、高校は担任の名前すらあやふやです。
より最新の記憶であるはずなのに、一体何故なのか?

最近考えていましたが、ふと、それは私が他の人への無条件の尊敬があったのが小学生までだったからなのだと気づきました。

私は小学生の時から非常に陰気で、友達は数えるほどにしかいませんでした。小学校5年生にあがり、いままでずっと共に行動してきた親友と別のクラスになってからそれは悪化し、一日誰とも話さないこともザラにありました。
あの頃は、たまに話すクラスメイトに対しては「何故自分を人間として接してくれるのだろう」と考えていたおかしな記憶があります。

幸いなことに、いじめはありませんでした。
しかしながら、私が孤立していたのは事実としてあり。
(皆社交性があってすごい)と、遊んでいるクラスメイト達をいつも羨望の目で見ていた記憶があります。
皆、社会の一員として、生きている。
私にはないものを持っている皆はまぶしくて、それでも一人一人の輝きが綺麗で見ていたいと思っていました。

しかし、中学に進むと、その羨望の目は淀みました。
きっかけは部活に入って友達が何人もできたこと。
基本的には部員たちは皆仲が良く、私もよく話していました。
社交性のある子たちと話すのは、楽しかった。
ですが、水面下では常に微妙なパラーバランスが働き、悪口が行き交いしているのを徐々に理解していきました。
いつも一緒に行動している2人は、相方がいないと「あいついつもくっついてきてうざい」と相方の悪口を言い、序列が上位の子に関しては何をしても褒めるがその子がいないと途端にその子の悪口合戦が始まる。

でも、皆が一緒にいると「うちの部は仲がいいよね!」とみんなで笑い合う。仲のいい集団になる。

おぞましい。

私が憧れていた社交性のある人たちは、仲がいいと思い込んでいた集団は、ねっとりとしたヘドロの粘り気でつながっているにすぎなかったのです。

社交性とは、暗黙の序列を把握し、守る気のない社交辞令でこびへつらい、誰かを踏み台にした悪口を吹聴する。
それが出来る人が、出来る人だけが。身に付けられるものなのではないか。

勿論、そんなことはありません。
私の周りにはそういった悪には加担しない優しい人もいましたし、彼らには友達もいました。
しかし、優しい人は仕事を押し付けられたり、「誰にでもいい子ちゃんしている」と悪口の対象になったりと、都合のいい存在として扱われていました。
そのように扱われるのに、社交性があると言っていいのでしょうか。
私にとっては皮肉にしか思えません。

社交性をこのように捉えた私は、もう社交性がある人を無条件ですごいとは思わないようになりました。
それに伴って他の人への興味もなくなっていき、最近知り合った人(同じゼミ生も!)いまだに名前を覚えていませんし、覚える気もありません。

個々で向き合えばいい人もいるものの、集団でいる人、とくに自分の意思よりも他の人からどう思われたいのかを考え他の人の思惑を踏まえて話す人は、怖いと思っています。

正直生きにくい考え方だとは思っていますが、そんな中でも尊敬できる人や友人はぽつりぽつりとはいるので、今は良しとしたいです。



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