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 私が大学医学部を卒業し、医師国家試験に合格した後のこと。その頃の私が籍を置いていたのは老年病科。私には持病があるため、あまりハードな科を選ぶことができなかった。なにせ研修医は、勉強をしなければいけない上に、患者様と向き合って仕事もしなければいけない。その点、老年病科の研修医は、どこかのんびりとした空気があり、仕事自体もハードではなく、私の体的にはちょうど良かった。
 だが……。同期たちは、手術の助手をしただの、学会発表をしただの、同じ動悸なのに、一歩先に行っている話をしてくる。身体が不安だから老年病科にいたが、本当にこの科でいいのかという不安が溢れ出てきた。動機たちは、内科・外科・眼科・整形外科、そして神経内科。あまりに老年病科とは違う、医者としての華々しさが、彼らにはあったのだ。
 そんな中、老年病科の研修医である私は、研修を毎週月曜日に行いながら、他の科での研修もしていた。一つの科のことだけではなく、広く知っておく必要があるためだ。私が選んだのは小児科。当時の小児科は、夜間のコンビニ受診を始めたものの、少子化の影響もある上、この先の医療を考えると選ぶ研修医は少ない。私が老年化病の研修医として小児科で勉強をしていた時も、小児科に籍を置いている研修医はゼロ。その前の年も、さらにその前の年もいなかったそうだ。他の眼科や形成外科を志望する研修医は毎年10人程度いるのに。つまりそれほど人気がなかった。
 だが実際に、小児科で研修医として携わってみると、他の科ではないほどの様々な知識が求められた。耳鼻科や眼科や整形外科といった小児患者の全身管理。小児救急患者、お産に関する分娩出産、さらに新生児集中医療NICUにも対応できなければ務まらない。小児科にいればいるほど、私はこの科でのやりがいを見出していった。ただ要求される知識は多く、拘束時間が長いのに、薄給という問題がある。だから小児科で働きたいと思わないのだろう。
 そのことを大学小児科の教授も感じていた。何かやる気を出させるものはないかと考えた結果、小児内科と新生児科をチーム医療として団結させるための、特注の白衣を作ることになった。
 この制服は小児科医としての、誇りとプライドを踏襲させたものにしたいという、教授の願いでもあり望みだ。制服にかけるこだわりにも妥協を許さず、子どもと接するのにベストなもの、そして女医が多いので女性が着やすくスタイリッシュなものに仕上げていった。二の腕部分に大学病院名、小児科の名前、本人のフルネームが刺繍しているのも特徴だ。当時、医学生が着る白衣が4200円、一般的な白衣が9800円、ちょっといい白衣が14800円という値段だったが、小児科の特注品は35000円。研修医の私では手が届かない値段だが、制服を着ている小児科医たちは、小児医療に全身全霊を捧げる戦闘集団のように見え、私はその制服に憧れを抱いた。
 そんな小児科医の先輩たちを見ているうちに、老年病科ではなく、私も小児科の医師として働きたいという気持ちになっていった。
 私は6月に正式に老年病科の研修医を辞め、小児科の研修医に転身。噂以上の過酷な中に身を置いた。だが、やりがいはある。どんなに大変であろうとも、小児科の先輩たちと一緒に肩を並べていけるような医師になるために必死で働いた。
 それから2か月が過ぎ、夏休みが終わった頃、小児科の教授と小児科の医師の先輩から呼び出しがあった。
「失礼します。お呼びでしょうか」
 私が教授の部屋の中に入ると、机の上には2着の小児科特製の白衣が置かれていた。
「頑張っているみたいだな。これは私と杉浦医師からのプレゼント。受け取ってくれ」
「えっ!?」
 机の上に置かれた白衣を見ると、確かに二の腕部分に私の名前が書かれている。憧れていた白衣を手に取り、私はその場で深々と頭を下げる。
「ありがとうございます!」
「これからも小児科医として頑張っていくんだぞ」
「はい、精一杯頑張らせていただきます!」
 こうして私は憧れの制服を手に入れ、憧れていた先輩医師たちと同じ戦闘集団の一人になれたのだ。
 そんな私は今も、その時の感謝の気持ちを持ちながら、小児医療と向き合って仕事をしている。

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