「加藤周一著作集 羊の歌」 を読んで

 本書を読んで、自分は一体何のために情報を得ているのか、ということを深く考えました。


主人公ととある実業家が夕食をしているシーン。
当時はヴェトナム戦争が行われている時代でした。

主人公が「ヴェトナムでは二十五万人の子供が殺されている、という話を
知っていますか」と尋ねた時、
実業家は「僕は信じないね」と気軽に答えました。

凄惨な内容に対し、あまりにも淡白に答えたことに怒りを感じた主人公は、
「そもそもあなたは、ヴェトナム戦争についてはどんな初歩的なことも知らないでしょう。交戦している一方の側の言い分は漠然と知っていても、他方の言い分は一度も読んだことさえない。それでは、私のいったことが、ありそうもない、と考える根拠もないでしょう。基礎資料をみもしないで、ぼくは信じない、などといっているから、あなた方は、ナチが何百万人も殺してしまった後になって、強制収容所と毒ガス室のことは知らなかった、と言い出すのだ、、、」と立て続けに実業家を非難しました。

すると、実業家は、
「ぼくはそういうことを知りたくないね、平和に楽しんで暮らしたいのだ」
そして、
知ったところで、どうしようもないじゃないか」と答えました。



実業家が言うように、
およそ多くの情報は知ったところでどうしようもないと思います。

現代でいえば、ロシアーウクライナ戦争で市民が何人殺されたか、
また、中国で何人の人が国家反逆罪として拘束されたかを知ったところで、
自分に何かできることがあるのかと言われると何もありません。

だからこそ、ではなぜ、自分は情報を得るのか、ということを
考えるにいたりました。

そしてこれに対する答えはまだぼんやりとしているのですが、
現時点では、「いつかその世界に出会ったときに、自分ごととして捉えられるようにするためである」と考えています。

今年の春に台湾へ家族旅行に行ったのですが、
父の知り合いである台湾の方が案内をしてくれました。

その道中、台湾の方はしきりに習近平が続投するか否かを話していました。

というのも、習近平は「1つの中国」をスローガンに掲げており、
軍事力を行使してでも台湾を中国の領土にしようとしているからです。

「習近平が続投すると台湾は危ない。今のうちに日本やアメリカと仲良くなる必要がある、、、。」


台湾へ行った時に、初めて、
「ただの情報」が「現実」とリンクしたように感じました。
そして、
今回知り合った台湾の方が危険な目に遭うかもしれないと感じた時、初めて情報を自分ごととして捉えられたように思います。


知ったところで、どうしようもないじゃないか。


確かにそう思います。
でも、今後、もっと自分の世界を広げて、世界全体を自分ごとのように感じられるような存在になっていきたいと感じています。

なぜなら、そこには現実があるからです。



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