言語の壁への考察
中国人のグループが中国語で何かを話している時、オランダ人グループがオランダ語で何か話をしている時、たとえ同じ空間にいたとしても、日本人である私は内容がほとんどわからない。逆に彼らが私のテレビ通話を聞いていたとしても、何を言ってるのか分からないだろう。このような時、言語の壁を感じる。
彼らが母国語で話せる状況にも関わらず、英語(正確には互いの共通語)で話していたならば、それは私を意識してくれている、という事だ。だから、英語があまり話せなくてもこちらも話を聞く姿勢を見せる方が望ましい。
言語の壁があると、目の前で下ネタを言ってたとしても、「これからコイツを暗殺しようぜ」と言ってたとしても分からない。つまり、言語には秘匿性がある。それ故に、恐れが生じる。仏教の「不安なのは知識が足りないからだ」とはよく言ったものだ。
この恐れに起因する凄惨な出来事は歴史上数多く存在した。例えば、近年だとインドネシアで起きた「9・30事件」が挙げられる。犠牲者数は50万人とも200万人とも言われているこの事件は、最近までインドネシア人の中で口にする事がタブーになっていたそうだ。
冷戦下で共産主義を敵対視していたため、漢字を使ったり中国語でコミュニケーションを取る事 = 共産主義のスパイだと見なされ、当局により禁止された。だから、インドネシアの中華街は漢字が殆ど見られなかったそうだ。僕がジャカルタに行った時はあったけどね。
さて、こんなお話がある。「バベルの塔」は聞いた事があるだろう。旧約聖書の話で、元々一つの言葉を話していた人間が傲慢にも神に届くような天高きバベルの塔を作ろうとした為に神の怒りを買い、もう二度と協力ができないように言葉をバラバラにしてしまったという話だ。
言葉がバラバラだからコミュニケーションが取れず人々が争うという教訓はよく出来てるなと思う。一方で、一つの言語を皆んなに強制するのも違うと思う。
ではAIの台頭により、お互いに話す内容が瞬時にわかるようになったとしたら、どんな世界になるだろう?旅をしていると色んな言葉が聞こえてくるが、その内容が全て分かってしまう、という事なのだ。これは劇的な変化ではないだろうか。
例えば店員さんに詳細な内容を質問できたり、注文ミスが回避できたり、出会った人とより深いコミュニケーションが取れたりするかもしれない。一方で、知らなくて良かった悪口が聞こえてくるかもしれない。
日本だと意識しないが、公用語が複数ある国だって沢山ある。例えばベルギーの公用語は3つで、オランダ語、ドイツ語、フランス語だ。彼らは学校教育において、英語教育のみならず、自分の話す言語以外の二か国語も勉強する。私がバリ島で出会ったベルギーの小学生は、日本のアニメが好きで、日本語も勉強していた。インドネシア人も、国内だけで720言語存在するから、自分の言葉の他にインドネシア語と、英語を勉強する。そう、トライリンガルが普通な国も多いのだ。
だが、教育を受けたからといって必ずしも話せるようになるとは限らない。では、なぜ言語を学ぶのだろうか。興味深い事に、言語教育の目的は、言語が話せるようになる事ではない、という話がある。ヨーロッパでは互いの言語を学ぶ経験を積むことで互いの文化を理解し尊重する事を目的にしている。第二次世界大戦の反省からだ。EUの思想に近いと思う。
AI翻訳機が完成した時、互いの言語を学ばなくなったらどうなるのだろうか。僕は言葉自体は時間がかかるから学ばなくても、その国に足を運んで文化を体験する事が中心の教育になると良いと思う。翻訳出来ないことも、きっと沢山あるだろうから。
また、AI翻訳機ができたとしても、秘匿性が必要なので、翻訳されない独自の言語を生み出す事に価値が生まれると思う。手話が流行るかもしれない。
なんとも駄文になってしまったが、思考の整理のために書いてみた。何か気づきがあれば教えて欲しい。